続・青春VAN日記73
ケント社の巻 その40(1984年春)
<沖縄出張②・JAZZNIGHT IN OKINAWA>
私の那覇の定宿は、久茂地のホテル・サン沖縄さんでした。
なぜなら、サン沖縄の嘉味田朝計社長の御子息・嘉味田和彦君が今年度のケント社新入社員の一人であったからです。(翌年、ケント社員旅行でも利用させて頂きました)
夜8時、チェックインを済ませた私は、カデカルさん御自宅にウチナータイムの電話をするのでした。
「・・・よろしかったら、飲みに行きませんか?」
突然の電話にも係わらず、那覇アイビークラブのカデカルさんとテルヤさんが、迎えに来てくれました。
左、照屋氏、真ん中は置いといて、右、嘉手苅氏 |
お二人は、青山ピックアップ開店時からのお付き合いであり、ヴィーナス沖縄旅行の時にもウインドサーフィン沖縄大会にも協力頂き、またYAGI様初契約の時にもお世話になった方々でありました。
松尾の琉球料理店ではウチナー料理を片っ端から食べました。
ウッ、もう食べられない・・・お腹いっぱいだ。
「♪腹張~りぬ 死んだら神様よ~」と、うろ覚えの歌を歌うと、
「横田さん、それは違うサー。安里屋ユンタの歌は、こうだよ。
♪マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ~
・・・昔、竹富島に安里屋クヤマという美しい娘がいましたとサ。
ある日、首里王府から目差主(めざししゅ)という下級役人が派遣されて来て一目惚れしたそうな。そして必死に口説く小役人と断わり続ける娘のやりとりを面白く唄い綴ったものが、この歌なんですよ、ユンタク~ヌンタク~・・・。」
そうだ横田さん、きょうはジャズの店に案内しましょう。と・・カデカルさんが連れて行ってくれたのは、牧志にある“KAM’S”という ライブハウスだった。
基地がいくつもあるせいか、店内にはアメリカ人の姿が目立った。演奏者達の中にもにも米兵らしきプレーヤーが多かった。
(G・Iカット頭ですぐわかるのダ)
沖縄県内には、不幸な歴史があったせいで、多数のキャンプが存在し、米国文化があふれている。米国本土からはたくさんの有名プレーヤーが直接に訪れている。
そしてウチナーの人達は、伝統的に音感・リズム感が良く、芸熱心な風土である。この融合によってたくさんのミュージシャンも生まれている。
いわば、沖縄はアメリカ音楽やジャズの本場なのである。
バタくささたっぷりの演奏を楽しんでいると、カデカルさんは言った。
「横田さんはジャズ好きだから、きょうは特別の人を紹介します。」
久茂地川沿いに歩いてゆくと、安里の橋の向こう側に在ったのは、“インタリュ-ド”というお店であった。
「・・・もしや? もしやこれは!・・・カデカルさん、もしかしたらこの店は・・・?スイングジャーナル誌も絶賛の・・・油井正一氏も新宿Jの歌姫・安ますみさんも絶賛する・・・沖縄美人にして、日本のビリー・ホリデーと称えられる・・・知るひとぞ知る、本土では伝説のジャズ・シンガーと呼ばれる・・・、・・・・・・・・・与世山澄子さんのお店ではありませんか?」
「ばれましたか!」
私は記事やうわさでお名前だけは知っていたが、今まで一度もその歌を聞いた事が無かった。
ドキドキと高鳴る胸を抑えながら店に入ると、いたー、いらっしゃったー!素晴らしいチュラカーギーが出迎えをしてくれた!丸いウチナー顔に、はっきりとした目、長いまつげ、可愛い鼻に、魅惑の口元。・・・なんと魅力的な方なのだろう!
そして、その歌たるや!
マイファニーバレンタイン、サマータイム・・・素晴らしい!
日本人ばなれした英語の発音!
エラやビリーホリディの様な哀愁を帯びたフレイジング!
沖縄ならではの不思議なビートの乗り!
マイナーペンタトニックと琉球旋律の融合!
本土のジャズ歌手とは何かが違う!
歌の合間に、御本人のアルバム写真を見せていただいた。
少女時代の、米軍キャンプで歌う愛くるしいお姿。
来沖したレス・ブラウン楽団やボブ・ホープとの共演のお姿。
日劇に出演した時のポップなお姿。
この方の歌は、演技や芸ではない。御自分の人生の心の歌だ。
ビリーホリデイの“I'M A FOOL TO WANT YOU”
サラボーンの“BODY & SOUL”
美空ひばりの“悲しい酒”・・・と同じだ。一人で聞いていたら、涙が止まらなくなりそうだ・・・。
初めて与世山澄子さんの歌を聞いた私は、カンムリワシ具志堅用高のパンチを食らったようにKOされるのでありました。
(※与世山さんのレコードは コンチネンタルレコード
“与世山澄子ミーツ マル・ウォルドロン” HL-5032)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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