続・青春VAN日記49
ケント社の巻 その16(1983年)
< 新入社員募集 >
ケント社役員会は、百貨店・月販店への進出を決定した。
直営店、専門店を中心とする“百年ケント社”を目指す私の胸中は複雑だった。
企業とは利潤を追求して大型化して行くのが常なのだろうが、それではかつてと同じ数十年の企業サイクルの道を辿る事になるのではないか?
私の夢は、一獲千金の利益を上げていずれは滅ぶ、企業のライフサイクルパターンどおりの一般的大企業になることではない。
日本で最初の、時代を超える百年続くブランドつくりである。そのためには、莫大な倉庫・物流・人件費を必要とし、現金を眠らせる大型委託取引はけっして好ましい事ではない・・・と考えていた。
・・・そんな私の脳裏には、自分の意見とは逆方向の国運を託され苦悩する連合艦隊司令長官の姿が、想い起こされるのだった。
「・・・個人としての意見とは正反対の決意を固め、その方向に一途邁進のほかなき現在の立場は、誠に変なものなり。これも命というものか。」・・・山本五十六。
山本は軍人ながら、海軍次官時代から強硬な戦争反対論者であった。
「日独伊三国同盟を結ぶと日英米戦争になる。日本は英・米と戦争してはならない。英・米を敵にまわして、日本が成り立つはずが無い。」
しかし、三国同盟は調印された。
山本は、本人の拒否にも拘らず連合艦隊司令長官に任命された。
怒った山本は、海軍省に正式に要求した。
「それならば、零戦と陸攻おのおの1000機を準備してもらいたい」
・・日本の航空生産体制にとって、それは不可能に近かった。・・
当時、海軍機生産量は月約180機、うち零戦50機にすぎなかった。搭乗員も、その部隊の定員を充たすのが精一杯であった。
新空母が次々と就役した。しかし搭乗機と搭乗員が足りなかった。海軍の人員計画は、艦が主体で、艦ができてからはじめてその艦の搭乗員・搭乗機の予算が取れる仕組みだった。それから教育訓練が始まるのだった。
強硬な好戦論派には即戦体制の準備の裏づけが出来てはいなかった。
ムチャクチャな話だった。よくもこれで戦争できると考えたものだ。
「大体陰で大きい強い事をいうが、自分が乗り出してやってみる気骨がない連中だから、私が再三固辞したのを引き出しておきながら、注文も何もあったものではない。
かくの如き人事の行なわれる今日の海軍にたいし、これが救済に努力するも、とうてい難しと思わる。日本海軍は米国を相手に戦う様に作られていない。半年か一年の間は縦横無尽に暴れまわって見せるが、二年、三年となれば全く確信が持てぬ。 ・・・山本五十六」
(吉田俊雄・四人の連合艦隊司令長官より)
そしてケント社においては、専門店中心主義の私が、百貨店担当営業課長に任命された。
“専門店営業と販促業務に集中させて欲しい”
“Kentのポリシー・能書きは、対大型企業には向いてない”
“月販量販店への出店は、伝統ブランド作りには不適切である”
との再三の固辞にもかかわらず、たった一人の販売社員もいないままに・・・。
「それならば、営業社員3名・販売社員10名の即戦力を直ちに用意してもらいたい。」
・・・プロのKent販売員を短期に育てる事は不可能に近い。
トラッドを理解し愛好する人材でも少なくとも2年はかかる。
店長レベルはその又2倍の時間が必要である。
しかし社命とあらば、半年の期間でも見事にやりとげねばならぬ。
(不肖私は、山本長官同様の状態に追い込まれてしまった。)
急遽、ケント社新入社員募集が行なわれた。(・・泥縄である)
ケント販売社員は人間なら誰でも良いというものではない。
かつてのⅤ社経験の中で、最後まで頼りになった1型忠誠社員とは、
Ⅴ社ならびに会長が好きで働いている“好き者社員”であった。
だから社員は“好きこそ物の上手なれ”であらねばならなかった。
突然の公開募集では適切・優秀な人材は揃うべくも無かった。
結局、自分の手で探し出すしかなかった。
Kentのにおいは自分が教育するしかなかった。
幸い私にはたくさんの“アイビークラブ”の知人友人がいてくれた。
・・・やがて、営業には鈴木栄治君(元キングタイガー社)、
販売に、青木忠、矢作孝、磯崎由紀夫、朝比奈利充、山原治、中嶋誠、浅見芳一、深沢晃一、香川さん、の諸君らが入社するのであった。
大規模小売店でのショップの成功は、いずれは自社の首を締める事になる。“真珠湾攻撃”と同様である。
それが分かっていながら、社命とあらば、やらざるを得ない。やるからには、いい加減なケントショップを作るわけにはいかない。
私の旧VAN以来の“トラッド販売教室”が再開されるのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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