続・青春VAN日記37
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<青山トラ次郎・営業旅情B> |
牧尾社長と私は鹿児島空港に降り立った。
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空港は鹿児島とは名ばかりで、鹿児島市街地からは30kmも離れたシラス台地の森の中に在った。
(新東京空港や東京ディズニーランドと同じパターンだ、地名詐称だ。)市街までバスで1時間もかかった。
そして繁華街の中心は、鹿児島駅ではなく西・鹿児島駅であった。
どうしてこんな判り難い紛らわしい表示をするのだろうか。
( 九州では歴史ある古い街の国鉄駅は大抵、町郊外の外れに在った。昔小学校の国語教科書で読んだ“お爺さんのランプ”に書いてあったが、明治時代地方には、線路を伝わって悪霊がやって来るという迷信があり、鉄道駅をわざわざ繁華街から離れた所に作ったらしい。)
西鹿児島駅前には、西郷さんの銅像があった。
上野の銅像とは顔と服が違っていた。軍服姿の西郷さんだった。
鹿児島といえば “薩摩の国”である。その歴史は古事記まで遡り、中世守護大名の島津氏の台頭とともに強国として成長した。
かつて秀吉に二十二万の大軍を差し向けられての島津攻めに降伏したが、関が原の戦においては、島津義弘は僅か千五百の手勢で八万の東軍に対し一歩も引かず、家康本陣を真一文字に敵中突破したという。
その後も江戸幕府に徹底的に恭順せず、臨戦態勢の町造りや、隠密を捕らえる為の薩摩方言作り等、徳川に一切妥協をしなかった。
これらの戦時を意識した入り組んだ市街地造りは、昭和の現在にも続いているのだろうか?そして、まず話題に上るのはその薩摩隼人の激烈な気風である。
江戸末期には、横浜生麦村において島津久光の行列を横切った英国人を薩摩藩士は一刀の元に切り捨てた。その後の維新活動における薩摩藩の活躍は、激烈な示現流と相まって、新撰組も恐れるほどであったという。
(ちなみに藤代先生は、天然理心流・近藤勇・土方歳三の同郷である。(管理人注):残念ながら違います。生まれも育ちも葛飾・柴又・・・・ではなく、都内のサンマで有名な地です。)
さらに、西南戦争、日露戦争、太平洋戦争等における九州男児の勇猛さは枚挙にいとまが無い。まさに恐るべき壮絶な薩摩おごじょの土地柄である
これらが、私のイメージした鹿児島であった。 |
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歴史上、日本国の動静に影響を与え続けた恐るべき薩摩国。
この地で港区青山の軟弱V社員ごときが通用するのだろうか?
しかし、びびってはいられない。私とて、古くは関東源氏、上州は新田・足利氏の里出身である。新田義貞、上泉伊勢守、近くは国定忠治、大前田栄五郎、福田・中曽根・小渕を生んだカカア殿下の土地出身である。
負けてたまるか。(なんのこっちゃ)
私は、覚悟を決めて“だるま屋本店様”を訪問するのであった。
恐る恐る入店した私に、“チェストー”の声は掛からなかった。鹿児島県人は、全員が“ボッケモン”ではなさそうであった。
満面の笑顔でだるま屋・尾堂社長が迎えてくれた。
どうやらケント牧尾社長と尾堂社長はVK時代から旧知の仲であったらしい。話が弾んでいた。
尾堂社長は、戦後の鹿児島衣料品店業界の志士とも言うべき方で、日本・欧米の一流ブランドはほとんど手掛けていらっしゃった。
市内には、中央町本店を筆頭に7店もの店舗を営業されていた。そして、店奥の商談室には、なんと尾堂社長と石津会長との2ショット写真も掲げてあった。
写真を見て、突然、以前石津会長から伺った話を思い出した。
「・・・僕は、日本中あちこちのお店に名前を付けたんだが、以前、鹿児島でこんな事があったよ・・・。
鹿児島市内には “だるま屋”という 大きなお店があるんだが、
あるとき、ご主人から、近所に婦人物の店をオープンするので、店名を考えてくれないかと相談されたんだ。
僕は“だるま屋” じゃ古臭いから名前を変えろと言ったんだが薩摩男のご主人は、伝統の店名は変えないとどうしてもこだわる。だから、いっそのことメンズの店とレディスの店と二軒の店を合わせて、“だるま屋”にしようと持ちかけたんだ。
メンズ店は“ダル”(D'AL)、レディス店は“マヤ”(MAYA)。両方で“ダルマヤ”と言う訳だ。・・・ご主人はそれで納得してくれた。あそこの2店は僕が名前を考えたんだよ・・・!」
私は尾堂社長にこの話をしたところ、一瞬にして私をVAN社員として認めてくれ、そして信用してくれた。
「・・・そうかい、石津さんはお元気ですか!」
そして鹿児島1の繁華街にある“だるま屋天文館店”に案内してくれた。
・・・おや?・・・だるま屋さんの隣に “時報堂”という名の大きな時計・貴金属店があった。・・・どっかで見たことのある名前だなあ?
・・・そうだ!我が青山Kent-SHOP店の顧客“吉永剛”さんの実家の店名ではないか!
嗚呼、何たる奇遇!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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