続・青春VAN日記72
ケント社の巻 その39(1984年春)
月日の経つのは早いもので、あの悪夢の破産の日から開始された
“VANルネッサンス運動”も、関係各社一同なんとか立ち上がり、ようやく再建一段落の状況を迎え、83年は無事に暮れていった。
思えば無我夢中の数年間だった。いろんな事があったなあ。
・・・グラマン・ロッキード事件、大韓航空機事件、ロス疑惑騒動、
三宅島大噴火、戸塚ヨットスクール事件、グリコ森永事件、三越事件、小選挙区制開始、東京ディズニーランド開園・・・、
おしん、金八先生、笑っていいとも、ひょうきん族、今夜は最高・。
かつて激動の60年代に始まったVAN卒業生のためのKentブランドも、無事に復興する事ができた。・・・だが問題はこれからである。
幸いに、1984年、高度成長社会はバブル景気時代を迎えていた。
ケント社は年商20億となっていった。・・・が、伝統ブランドを目指すKentは、軽軽しくこの波に乗ってはならないと、身を引き締めた私は寝ても覚めてもKENTの四文字ばかりを考えていた。
心配の種である月販店の展開は、私の希望に反して次々と店舗数が増えていった。渋谷店、新宿店、ヤング新宿店、上野店、ニュー池袋店・・・。
(・・・VANグループ役員会は、また拡大路線を取るのだろうか?
かつての失敗から教訓を学んではいないのだろうか・・・?)
この新年、新店舗にそなえて新たに10数名の社員採用が行なわれた。
そして販売社員教育は、私の仕事であった。
・・・新人達を見ると、思い出すのは自分の新入社員の頃だ。憧れの会社に入り、頭に血が上っていてモタモタしていたっけなあ。電話がカカッテくるのが怖かったなあ。出ても何も答えられない。だから出来るだけ取らないようにしたりして・・・。
最初に怒られた日は今でも忘れない。しつけにうるさい某課長がいて、ガミガミやられたもんだった。関谷さんや宮武さんやマモちゃんも苦労してたね!
(81年頃、某課長は西麻布でカレーの店を開かれたので、私も何度か 寄らせて頂きました。O課長はやさしい店長さんになっていました)
そして配属先の池西デパートでは、Kent店長からの連日の罵声教育。
“バカ・ボケ・カス”!“会社に帰れ!”と 泣かされたものでした。
嬉しかったのは、となりのニューヨーカー店長の滝口さんが、その日の帰りに一杯おごってくれて励ましてくれた事。
(そうだ、今度ニューヨーカーの展示会におじゃまして御礼を言おう)
もし自分が先輩になったら、やさしく教えようと思ったものだった。
仕事の上じゃ、へまばかりやっていたけど、服装じゃ負けない自信があった。なにしろ学生時代からトラッドに関してはうるさい方だった。
成城Kentshopカワムラの“コージさん”とトラッド話に熱中したものだった。・・・ああ思い出すなあ・・・。
<沖縄出張①>
83年度の決算が好調な結果を迎えた頃、沖縄のYAGI店様より電話を頂いた。屋宜得禄大社長の御子息の屋宜奨専務からであった。
㈱YAGI様は、沖縄県内最大のファッションチェーン店であり、国際通り店・沖映通り店・松尾店・コザ店と営業されていたが、この度、コザVAN-HOUSE店・マチナト店・ダイナハ店と出店計画され、Kentの取り扱い店を、従来の松尾3号店(山田店長)1店舗のみから各店に増やしたいという、ありがたい御連絡だった。
3月3日、私は喜び勇んで那覇一泊の出張に飛んだ。
商談予定の開店時間より、少し早い時間に着いてしまった私は、三越前でバスを降りると、石川民子先輩のことを想い出すのだった。
(・・・1972年頃、我Ⅴ社にも沖縄出身の先輩社員がいた。私が好きだったのが、学生時代に接客して頂いた渋谷NOW5FKentコーナーの石川民子先輩。高田店長の時代だった。彼女は、大した買物もしないのにやってくる私に、親切に話し相手になってくれて、ノベルティや紙袋をくれた。丸顔の可愛いお姉さんだった。
その後、石川さんは沖縄に帰られ、国際通り三越VANコーナーにいらっしゃったと聞く。今も沖縄でお元気なのだろうか・・・?)
開店した牧志店に入った私は、さっそく屋宜専務・伊敷2号店長・山田3号店長たちと細かい商談に入った。前年に倍増する大金額の商談を終えたのは、午後3時頃の早い時間だった。
商談後、屋宜専務と四方山話を始めると、専務は歴史好きの文化人である事がわかった。琉球王国・舜天王話や首里城復活計画話が盛り上がると、専務は私に首里博物館見学を勧められた。
私は店用のお使いバイクをお借りして、早速博物館に行くのであった。すでにして沖縄に魅せられていた私は、琉球の歴史をもっと勉強してみたかったのだ。
調べてみると、なんと屋宜氏とは琉球王朝に係わる名家であった。さらに戦争前の古い那覇市写真には“ヤギ衣料品店”の看板を発見した。
私はこんな発見を喜ぶ、なんとも変わった営業マンであった。
博物館での成果に満足した私は、早春の午後のひと時、首里・竜潭池の弁財天堂前の公園で一人、休憩をした。
時節は春。緑の中の竜潭池にそよそよと吹き抜ける風と余りの気候の良さに、私はつい、ウトウトとしてしまった。
・・・一炊の夢を見てしまった。
<琉球夢話>・・・時は15世紀、第一尚氏時代のようであった。私は、どうやら中国からやって来た冊封使の一員らしかった。場面は、逗留を終えて中国に帰る冊封使を送る宴のようであった。
かつて琉球王が即位すると、中国から御冠船に乗った使節団“冊封使”が渡来し、「琉球国中山王」を封ずる式典が行なわれていたのである。
使節団は百人以上の人数であり、琉球王国は国を上げて祝宴を開き、首里・竜潭池に爬竜船を浮かべ、琉球固有の芸能を披露して接待した。
この事が、琉球古典芸能の確立や王朝料理の発展に大きな役割を果たしたのである。
・・・さて、爬竜船の中では、紅型衣装をまとったチュラカーギーが舞っていた。彼女は壷屋の按司・カデカル親方に仕える女官であった。
冊封使の一員である私は、長くカデカル親方の屋敷に逗留し、この女官の世話を受け、そして親しくなったものであった。
いよいよ中国に帰る逗留最後の夜、竜潭池で別れの宴が開かれたのだ。
船上で美しく舞い踊る馴染みの女官の目には、一筋の光る涙が有った。
三重城に登て
手巾持ち上がりは
早船の慣や一目ど見ゆる
朝夕さん御側拝で
馴れ染の里や旅しみて
如何し待ちゆが (花風)
この謡の意味は、あたかも“義経恋し・と謡う静御前”と同じものであった。そして、互いの目を見つめ合うだけの二人であった。
翌日、那覇の港には、涙で手を振り続ける女官の姿があった。
“嗚呼、私のチュラカーギーよ!”
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自分の声におもわず目覚めると、そこは黄昏の竜潭池のほとりであった。
しばらく夢の余韻にボーっとしていた私は、那覇市街へと戻るのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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