PAGE1 PAGE2 PAGE3 PAGE4 PAGE5 PAGE6 PAGE7
PAGE8
PAGE9
PAGE10
PAGE11
PAGE12
PAGE13
PAGE14
PAGE15
PAGE16
PAGE17
PAGE18
PAGE19
PAGE20
PAGE21
PAGE22
PAGE23
PAGE24
PAGE25
PAGE26
PAGE27
PAGE28
PAGE29
PAGE30
PAGE31
PAGE32
PAGE33
PAGE34
PAGE35
PAGE36
PAGE37
PAGE38
PAGE39
PAGE40
PAGE41
PAGE42
PAGE43
PAGE44
PAGE45
PAGE46
PAGE47
PAGE48
PAGE49
PAGE50
PAGE51
PAGE52
PAGE53
PAGE54
PAGE55
PAGE56
PAGE57
PAGE58
PAGE59
PAGE60
PAGE61
PAGE62
PAGE63
PAGE64
PAGE65
PAGE66
PAGE67
PAGE68
PAGE69
PAGE70
PAGE71
PAGE72
PAGE73
PAGE74
PAGE75
PAGE76
PAGE77
PAGE78
PAGE79
PAGE80
PAGE81
PAGE82
PAGE83
PAGE84
PAGE85
PAGE86
PAGE87
PAGE88
PAGE89
PAGE90
PAGE91
PAGE92
PAGE93
PAGE94
PAGE95
PAGE96
PAGE97
PAGE98
PAGE99
PAGE100
PAGE101
PAGE102
PAGE103
PAGE104
PAGE105
PAGE106
PAGE107
PAGE108
PAGE109
PAGE110
PAGE111
PAGE112
PAGE113
PAGE114
PAGE115
PAGE116
PAGE117
PAGE118
PAGE119
PAGE120
PAGE121
PAGE122
PAGE123
PAGE124
PAGE125
PAGE126
PAGE127
PAGE128
PAGE129
PAGE130
PAGE131 PAGE132
PAGE133
PAGE134
PAGE135
PAGE136
       


続・青春VAN日記101

ケント社の巻 その681985年夏)

<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行②>

ニューヨーク

・・・思い起こせば4年前。初めてNYを訪れた時・・・、NYの摩天楼には危険が一杯溢れていた。

その時搭乗のパンナム機は、突然の大雪のために予定のラガーディア空港に着陸出来ず、大はばに遅れて深夜のケネディ空港に到着した。

団体パック旅行では無い私達はマンハッタンへの足に困ってしまった。

仕方がない、とヴィーナスの面々は、空港からヒルトンHまでと、イエローキャブに乗ったまでは良かったのだが・・・、

・・・そのタクシーはボッタクリだった。

大門氏、コニ―、清水マリア氏、私、と4人で乗ったタクシーでは、ボブサップのような巨漢黒人の運ちゃんに法外な代金を要求された。

“ふざけるな”と憤慨はしてみたものの・・・ここは日本では無い。

(・・・日本ではLサイズの私も、ここではBoysサイズだった。)

高校授業で柔道を習った程度の私では、シャーマン戦車に竹槍である。
それに銃を持っているかもしれない・・・?

どうすることもI can notな私達は、通常4050ドルの料金なのに、結局500ドルもふんだくられてしまった。

“アメリカとは恐ろしいところだ”・・・と実感した。

(※かつて海軍武官時代に留学し、アメリカ社会を知った山本五十六長官が“絶対にアメリカと戦争してはならぬ”と言ったお気持が理解出来た。)

又、あのV社員米国旅行の時には、宮川常務からは恐ろしい体験談を聞かされていた。

「・・・俺が何年か前にNYに行った時、・・裏通りを歩いていたら、いきなりビルの陰から、丸太の様な黒い腕が飛び出してきて、財布ごと金を奪われてしまった。命あってのもの種だった。

君達、NYでは決して壁際を一人歩きしてはいけない。
・・・財布は2つ用意しておいた方が良い、
・・・手提げカバンはひったくりされるからショルダー型が良い、
・・・パスポートや貴重品は腹巻にしまえ・・・等々。」


本当に、かつてのアメリカは命懸けの旅行だったのである。

会長におかれても、スタットラ―・シェラトン・ヒルトンH等のセキュリティでは、何度も恐ろしい思いをしたと仰っていた・・・。

カデカルさんにしても、あめりかー世の戦後統治時代の沖縄では、 米軍に対しては“ヌチドゥータカラ”だと仰っていた・・・。


そのNYも、市長が代わって以後、最近ではハーレムも地下鉄も、大変安全になったという話であるが・・・はたして?


<傑作のガイド氏>

「・・ああ、横田さんといっしょだと狭い機内でも全く飽きないですよ!
池西で藤井さんや野村さん達とプレジデントでドライブした頃を思い出しましたよ!」
・・・とケンコレの富沢君。

「横田の話はたまに聞くと面白いけど、毎日聞くとちょっと飽きる。
VSOPだな。ベリースペシャルワンパターン!」
・・・と清徳氏。

「石津先生と旅行できるなんて夢の様です」・・・とカデカルさん。

赤ワインを楽しむ会長のとなりには常に花房氏が御相伴下さっているので、お供役の私もメンバー達と十分に楽しめた。



さて今回のケネディ空港には安全な昼間の到着であり、チャーターバスでの安心の移動であったのだが・・・、そのウェルカム・サイトシーイング車内でマイクを握った現地ガイドの後藤さんと言う方が少々ビミョーな?人物だった。

その口から出る発音たるや、“デバードデスプレーデスコ・・・” 
摩天楼や国連本部の“ビルジング”・・・だって!!!


こてこての前昭和時代的ジャパニーズイングリッシュだった!

とてもNYガイドと思えない大東亜時代の紐育仕様の米単語の数々!

年配男の骨董品ガイドには一同大受けしました!)


「・・・私が初めてNYに来たのは、1960年代の事であります。

当時、新進作家の小田実といっしょにNYにやって来たものでした。
“なんでも見てやろう”のドヤ街見聞に私の事が書かれています。

NYに暮らし始めてから、もう20年以上になりますが・・・」



・・・と、長~い自己紹介が始まってしまった。
(ホンマかいな?)

(・・・はやいとこ、マンハッタンの名所・旧跡の説明をねがいます。)

やがて話は氏のNY自慢話となり、・・・なんと!


「今日の皆様にはボタンダウンシャツを着ている方を見かけますが、私がかつてアメリカのファッション情報を日本に紹介しました!

当時、私があのアイビースタイルを日本人達に教えたのです。

何を隠そう、“テ(T)―シャツ”を日本に広めたのも私です!」



・・が~ん! まるで某樫山社長の御高説と同じだ。

80年の今、日本のアイビーは今、当社が創っている!」を拝聴した時の様に、私達ツアーメンバーはひっくり返りそうになってしまった!


・・・恐れ多くも、ここにいらっしゃる方をどなたと心得おるのか。
・・・よりによって、いったい誰の前でそんな事が言えるのだ。


・・・緊張する大泉課長、開いた口の塞がらない藤代先生、目が点の花房さん。



思わず会長の御顔を覗いて見ると、笑顔で“シ―っ”の合図!


・・・はたしてガイドの後藤氏は、今日の乗客のアイリッシュセッタークラブとはいったい何なのか、石津謙介・VAN関係者達の一行だとは御存知なかったのでしょうか。

それとも、知った上でのアメリカンジョークだったのでしょうか?


(・・そうか、日本にアイビーを広めたのはNYガイドの後藤さんだったのか!
これはMC誌の小久保編集長にも教えてあげなくっちゃね・・・石津会長。)


全員が何事も無かった様に黙ってガイドの話を聞き(笑いをこらえながら)
ブルックリン橋からマンハッタンに入り、マジソンストリートを通ってミッドタウン53丁目にあるNYヒルトンまでのバス観光を続ける、アイリッシュセッタークラブ御一行の、大人の皆様方でした。


エンパイヤステート・ビルジング入口
偶然写り込んだNYガイドの後藤氏(左端)・・・今頃はいずこかでガイドを?
John F kennedy 空港にて、荷物待ち?
Hilton NewYork近くの路上風景
Hilton NewYork ロビーに鎮座まします大理石スフィンクス像・・
2人?2頭?いたような気が・・・?
エンパイヤステート・ビルジング・エントランスの見事なレリーフ。
憧れの“ 1925年スタイル ”です !!!
5th Ave. CATTLEMAN RESTAURANTにて



                            
     
                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく





“VAN SITE”ZOKU-SEISHUN VAN NIKKI 101
Copyright(C) IDEAKONA. All Rights Reserved.