続・青春VAN日記86
ケント社の巻 その53(1984年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・イタリア旅行⑩>
“西洋の柳川・・・ベニス?”
日本の観光地や有名人には、おかしなキャッチフレーズが目に付く。
「東洋のナイヤガラ・吹き割りの滝」とか、「日本の・100万ドルの香港の夜景・函館」とか、「日本のウォール街・兜町、日本のハリウッド・太秦」とか、「日本のジョーンバエズ、日本のビリーホリディ、和製プレスリー」とか、「下町のナポレオン」とか「日本のチベット」とか・・。
世界の一流・一級の代名詞のつもりなのだろうが、いったい自己のアイデンティティーや誇りはないのだろうか?
もし「日本のハーバード・東京大学?」とか、「東洋のブルックスブラザース・VAN?」などと言われたら、良い気分がするとでも思っているのだろうか?
いったい、日本人の輸入文化に対する過度の舶来崇拝志向とは何なのだ?
(戦後の日本の産業復興は、欧米一流品の模倣から始まった。当初は、世界からサル真似国と批判され、メイドイン・ジャパン商品とは、「安かろう・悪かろう」の代名詞であった。だが日本人は猿マネの極致に到達し、ついには本物に追いつき、今や、追い越す時代となり、日本製は優秀と信頼を証明するブランドに変化した。もはや戦後ではない。そろそろ本物にあやかろうとする姑息な手段は止めて、日本のオリジナル、日本の固有の良さを売り込むべきではないだろうか?
石津会長御友人のHONDA・SONY・SUNTORY等の先進の企業は、当の昔にコピーの域を脱し“日本独自の技術”で世界にチャレンジし成功していた。
そして我日本アイビーは、戦後のコピーから独自のVANアイビーとして完成され、K entトラディショナルは、石津・くろす氏による日本トラッドに昇華していた。)
・・・果して、今の日本国内には、“水の都”として、江戸の下町、大阪の船場や堺、水郷・柳川に至るまで、いったいいくつの“東洋のベニス”が存在するのだろうか?
(・・日本に居た時は“米英トラッド憧れ派”だったのに、外国で世界の本物を見聞すると、突然“にわか愛国者”に変身する、適当な私でありました。)
コテコテの日本ネイティブ男児の私の心中としては、“西洋の柳川・ベニス”とでも言ってやりたい気分だった。
しかし、やはりベニスはベニス!その素晴らしさは比較すべきで無かった。本物のベニスは、規模・歴史・文化・景観・風情すべてが“最高”だった!
ベニスには、紀元前2千年頃には、先住のイリビア人(ギリシャ人)が居住していた。BC100年頃、ベニスはローマの圧力を受け、次第に海中へ移動していった。
ローマ人達はやがて先住民を征服し、彼らを“ベネート”と呼んだ。これは“外国人”という意味であり、これがやがて変化し“ヴェネチア”の語源になったという・・・。
( ※ところで、ベニスと呼ぶべきか、ヴェネチアと言うべきか、それが問題だ。・・・フローレンスかフィレンツェか?シーザーorカエサルか?
近年の日本での外国地名・人名の呼び方は混乱しているようだ。私達世代は、社会の授業では ”英語読み”で、ベニスやシーザーと教わった。シェークスピア本の題名も、「ベニスの商人」や「ジュリアスシーザー」であった。
“007ロシアより愛をこめて”の中の映画字幕でも、トーマス・マンの小説“ベニスに死す”の題名も、私達世代は“ベニスはベニス” “シーザーはシーザー”だった。)
今でも私達の世代はアテンダントではなく“スチュワーデス”と言い続けるのである。(約一部の、1型の頑固者の世界の話です。)
それが、昨今の教育では、海外の地名・人名等は、各国ネイティブの呼称を優先して使うことになったようだ。
新聞、TV ,ラジオでも、ヘイジョウ(平壌)はピョンヤンに、金日成はキムイルソンと言うようになり、モータクトウ(毛沢東)と言わなくなった。リショウバン・ラインも南ベトナムも無くなり、なんと1991年にはソ連やユーゴスラビア等の国名までも変わってしまい、せっかく暗記したレニングラードやスターリングラードなどの地名は消え、冥王星は太陽系惑星から外されてしまった・・・。
そんなわけで、一昔前に習った知識が浦島太郎になってしまった私の、当日記の地名・人名等の混乱使用をお許しください。)
バスは“世界の水都ベニス”の郊外に到着した。
有名なオリエント急行・終着駅サンタ・ルチアのあるローマ広場であった。ここからは、船で市内に入るのである。
ベニスには、自動車や道路は存在しない。全ての交通手段は、水路であり、船なのである。
( ・・・思えば、高校生時代、期末試験を終えた同級生の不勉強仲間達は、悪夢の試験結果を忘れ去るために、よく皆で一緒に映画を見に行ったものだった。ピンクパンサー、荒野の7人、サウンドオブミュージック、夕陽のガンマン等々。そして1番人気は、“007” だった。
ショーンコネリーのジェームスボンドは、唐獅子牡丹の高倉健さんとともに、あまりにも格好良かった。まだ見ぬ憧れの“英国紳士”の動く教科書だった。
ブリティッシュスタイルのボンドルックには、一部のスキもなく、手にはアタッシェケース・車はアストンマーチン・取り巻く数々の美女達。
シリーズ中、最も強烈な印象が「ロシアより愛をこめて」だった。高校生にはあまりに目の毒な、ダニエラ・ビアンキのしたたるような艶っぽさ、そして、オリエント急行の列車内での、ソ連情報部員との猛烈な格闘シーン、ようやく“危機一発”を脱出したボンドが到着したのは、あまりにも美しいアドリア海の女王“ベニス”!であった・・・。)
「会長!まるで映画のONE SCENEの中にいるような気分であります。」
「そうだねえ、僕の世代なら、キャサリン・ヘップバーンの“旅情”かな!どうだい、大運河を快走するボートの中から見るベニスの景観は・・・、又なんとも格別だねえ!」
・・・白や茶やピンクの大理石でできた、さまざまの宮殿や広場、
大きな運河には水上バス、小さな運河にはゴンドラの小舟・・・
海と中世建造物のおりなす名画のような風景の中でも、これはいかに、まるでこの地で暮らしているベニスの人々の様に、全く違和感無く、異国の景色の中に自然にとけこんでいる我らがギリシャ帽姿の石津会長でありました。
・・・いったいなんと絵になる御方なのだろう。TPOの極致だ。
失礼ながら、会長の御容姿は、特に背が高い訳でもなく、外人のようなお顔でも無く、高木社長のように美男子でもありません。
さらに、会長の身に付ける服装は、いつも、一見・何のへんてつも無い
あたりまえの普通の服を着ていらっしゃる事が多い。
間違っても、世界の超高級品やブランド品などは身に付けない。しかしながらそのお姿、存在感は、海外においても外国紳士にひけを取らない。
ロンドンでもダブリンでもケルンでもローマの風景の中においても、よく見かける・高級品を身にまとい浮き上がって目立つ成金日本人旅行者や議員の先生方よりも、かえってその品格をきわだたせてしまうのである。
それは、各国の文化・習慣の違いや国際的なマナー・TPOをわきまえて、周囲を不快にする事の無い、知性と良識の“身だしなみの着こなしの技”だからである。
だからどこの外国でも、大人も子供も会長の姿に良識の人間性を感じて違和感を持たずに好意を持って応対してくれる。
どんな国でもどんな場所でも、現地の人に混じってもまるで違和感が無く、帽子ひとつで現地の空気に打ち溶けてしまう“読みの技”なのである。
「ひとかどの人物の、身の程をわきまえた謙虚な装いは、人々の好感を呼ぶ。身の無い人間の、身の程を自覚しない華美な装いは、人々の反感を呼ぶ。」
世の中には、この単純な図式が分かっていない自称“おしゃれ”が多すぎる。紳士のおしゃれとは、けっして高級品や流行品を身に付けて目立つ事ではない。
自分の身の程を適切に表現し、周囲に好感を与えられる装いをすることである。
(会長の旅の装いに改めてT・P・Oの勉強をする私でありました。)
モーターボートは、大運河の観光をしながら、やがてサンマルコ広場に近い、伝統のホテル“ダニエリ・エクセルシオール”に着岸した。
船着き場からエントランスに入った私は驚愕した!
ダニエリ・エクセルシオールとは、なんと!宮殿であった。
(またまた、会長は、いったいなんというホテルを・・・!)
このホテルとは、14世紀のベニスの貴族“ダンドロ家”の宮殿であった。まさしく、いにしえの貴族達が居住し連夜舞踏会を開いた本物であった。
中世にはイングランド王室の来賓から、近世には我天皇陛下や世界各国の首脳・著名人に至るまで、世界の要人に愛されている歴史的なホテルであった。(本来、私ごとき貧乏御家人の二男坊が、とても宿泊する場所では無い・・。かのヴェルディのオペラ“運命の力” を全曲歌えるような客こそが相応しい?)
ベニス建築の、一つの典型的な装飾は、「蝋燭を持った腕」らしい。古い廊下の壁のところどころには、彫刻の腕が突出していて、その手が蝋燭を握っているのだ。つまり腕の燭台である。
近代的なホテル照明とは違い、薄暗い廊下でこれを見ると不気味だった。
すっかり気おくれしてしまった元・青山356若手グループの私達でありましたが、それでもなんとか去年のドロモランド経験を思い出し、気分だけは日本の上流人になってサンマルコ広場にでかけるのでした。
波止場から見る2本の大円柱の間に覗くドゥカーレ宮殿の美しい姿や、広場のカフェの白いテーブルとイスは、かの映画のシーンと同じだった
。まさしく“旅情”と“007”の世界に浸りきる一行でありました。
そして、ディナーはエクセルシオールの中世貴族風の食事を味わい、クラシックなバーでの食後酒を楽しむと、・・花房さんのヒゲを見ては、まるで自分達が日本皇室のヒゲの殿下の所縁者であるかのような錯覚に陥るのでありました。
さらに私は、会長の御指示により、ツアー参加の宝石会社のお嬢様のエスコートを命じられ(私だけが独身者であったので)夜のゴンドラの“舟遊び”に出掛けるのでした。
中世のゴシック風建物に挟まれた夜の小運河のゴンドラは、ゆらゆらと水面に写る月影と、船を操る船頭さんの唄声に包まれて、まるで自分が“旅情”映画の主人公にでもなったような、この世の物とは思えぬほどのロマンティックなムードを経験出来ました。
月は高く 海に照り
風も絶え 波も無し
来よや友よ 舟は待てり
サンタルチア サンタルチア |
|
まさしく・・・、ドロモランド城に次ぐ第2のシンデレラ体験でありました。
(追伸・・・柳川の川船下り遊覧、K-PORT城の浦島体験も、高須さんとメカジャ・ワラスボの舞い踊りで、とても素敵です・・。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
|