続・青春VAN日記103
ケント社の巻 その70(1985年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行④>
ニューヨーク
このマジソン・アベニューこそが「米国紳士の通り」である。
なぜならば、かつての60年代のNY経済の中心地は、歴史ある金融のウォール街と並び、このマジソン街であった。
この街には、商業や広告代理店やマスコミ業等が発展し、世界をリードするビジネスマン達が闊歩していた。
・・・そしてこのマジソン・アベニュー346番地には、“米国の伝統と良識を売る紳士服店”“ブルックス・ブラザース”が燦然と輝いていた。
・・思えば200年前、大西洋を越えて新世界アメリカに移民したアングロサクソンの子孫達は東部地方に定着し、イギリス支配を脱却し、スペイン・フランス・オランダ等勢力を凌駕し、やがては新大陸での実権を握っていった。
そして“自由と博愛と平等”の新国家設立を果たす中心となったWASP達は、アメリカで築いた実権と将来をその子孫達に託すべく、エリート育成の大学を次々に設立した事が、伝統のアイビーリーグ各校の始まりだった。
アメリカWASPの良家の学生達は、一般市民社会とは隔離された全寮制のドミトリィで学生生活を送り、フラタニティ活動によって自分達のルーツである英国と先祖の伝統文化に愛着と誇りを持ち、教養ある人間ゆえに、トラディショナル・クロージングを愛用した。
これが、所謂「父や祖父の着たジャケットを、誇りを持って着用し、穴のあいた肘にもエルボウパッチを付けて着続ける精神」である。
世俗とは隔離されたキャンパスで勉学・スポーツに勤しむ学生達のその独特のスタイルは、伝統の古い校舎にからまる蔦のアイビーに因み、アイビーリーグやアイビースタイルと呼ばれたのである。
(※私は、ハーバード大・板坂元教授のIVY=インターバーシティー説よりも、ストーリーテラー・くろすさんのアイビー=蔦説が好きです・・・。)
そして、知性・教養溢れるアイビー校の学生や卒業生が終生愛用したのがブルックス・ブラザースであった。
ブルックス・ブラザース社は、1818年、ヘンリー・サンズ・ブルックスによる創業以来、リンカーン大統領を筆頭に、米国東部の社会的地位の高い人や、将来を約束された伝統校の学生達によって愛用された“アメリカ最古の男性用衣料品店”である。
そして米国200年の歴史の中で、ブルックスの服を着用する事は、生まれの良い、教養のある、礼儀正しい“自由・博愛・平等”の米国一流紳士の代名詞になったのである。
「・・・最高の品質の商品だけを作り、取り引きすること、そして、商品は正統な利益を得る価格で売り、かつ評価できる人達とだけ商いをすべし・・・。」
byヘンリー・サンズ・ブルックス
(※巷には、“ブルックスがアイビーを作った”、と言う方もいるが、ブルックスがアイビースタイルを創ったのではない。教養あるWASP達が歴史あるブルックスの伝統服を、好んで着用した事の結果なのである・・・。
つまり、アイビーはブルックスを着ているが、ブルックスが着せたのではない、彼らが勝手に愛用してくれた結果なのだ、と言う事である。(星野醍醐郎氏)
日本においても、“VANアイビーやKentトラッドはJプレスやブルックスのコピーだ” とか、 “VANはアメリカ服の海賊ヴァンだ”などと簡単に比喩した方が居るが、これも適切な表現ではないし、諸先輩に対し失礼である。
日本の教養知識ある諸先輩達は米国東部の歴史ある正統伝統服を学び、
日本人に適したアイビーを研究・紹介し、そして日本の心ある消費者達がアイビーを選択し愛用してくれた結果なのである。
ブルックスにしても英国伝統服をマネしたのでは無い。遠い自分達の祖国を懐かしみ誇りを持ち、伝統を維持して来た結果のスタイルなのである。
長い時の経過のみが成せる技“トラディション”なのである。
それらは軽々しくマネ・コピーなどと言うべき事では無いと思う。
かつての日本古代国家が先進の隋・唐文化を学んだ事と同じなのである。
聖徳太子や小野妹子を、ものマネやコピーの名人と言うのだろうか?
逆に現代中国がやっている事を、日本人は“猿真似”と笑えるのだろうか?
何でも手に入る現代人が、先達の苦労と努力も考えずに軽々しい批判をする事は、インテリジェンスあるべきアイビー愛好家のやる事では無い。
アイビーとは単なる服の1スタイルの事では無い。
人間の品格の事なのだ。)
私達、未来の文化人を目指した団塊の若者達が憧れたアメリカ文化。そして60年代の若者達が熱中した青春のアイビースタイル。
果して80年代のアメリカにアイビースタイルはあるのだろうか?
期待と確認のマジソン・アベニュー散策だった。
・・・かつての60年代には・・・、センタークリースを被り、ナチュラルショルダーにはボタンダウン、胸元はストライプ・小紋・クレスト・タイにポケットチーフ、足元はプレーントウ・ウイングチップのエリートビジネスマン達が、ニューヨークの白い蒸気の立ち上るマンホールの歩道を闊歩し、
・・郊外のキャンパスではテイク・アイビー姿が溢れていた。
(▼ 全てはその昔、メンズクラブ誌を穴の開くほど見ていた思い出です。ちなみに、往年のTAKE IVY制作ツアーから帰ったMC誌の座談会で、くろすさんが述べていた1965年“ブルックスの印象”は次の様でした。
「ブルックス・ブラザースの店は大老舗と言う感じがした。あるものといったら、別にそう変ったものじゃないけど、ただノレンの古さが違う。また、威厳を大変保っているというような感じが強かった。ブルックスは5階まであるんですよ。
5階がユニバーシティ・ショップとボーイズ・ショップになっている。下で売っているのと全く同じような物が、5階では半分ぐらいの値段だった。
季節的にマドラス柄が圧倒的に多かったですね・・・。
マジソン・アベニューあたりの人というのは、ビジネスマンの中でもかなりエリートだと思うんですよ。だから30歳くらいまでの人は、我々がいうアイビーをみんな着ていましたよ・・・・・・・・。」 ▼)
しかしその後のアメリカは、ベトナム戦争・人種差別問題・ヒッピー等社会問題が噴出し、地下鉄もハーレムも危険地帯になってしまったと言う。
そして70年代には、ニューヨーカー達のファッションは変化して、ジーニングの流行や、加工糸のファーラ―スタイルや、運動靴での通勤スタイル姿になっていったようだとも聞いた。(※V社先輩方の御話。)
・・そして今、73年VAN入社の私は、自分自身の目で見た!
“44丁目の角”には、今も多くのボタンダウン・マン達が歩いていた。
決してWASPの誇りの正統スタイルは廃れてなどはいなかった。これこそが、世界を引導するアメリカ伝統の良識の姿なのだ!
4年ぶりに胸ときめかせてブルックス店に入店した私は、格調ある重厚な店舗・ディスプレイ・レイアウト・店内を満喫し、正統ブルックス販売員のマナーある接客で買い物を済ませ、思わず一安心・・・するのでありましたが・・・、
マジソンの客達には、オ―センチック・スタイルだけではなく、新しい匂いのするボタンダウン・マンの姿も多く見かけられた。
アップ・トゥー・デイトなトラディショナル・スタイルだった。
そして、その新しいトラッド・トレンドの波は、マジソンの北方、セントラルパーク・イーストにあるかのPOLO・SHOPから流れ出していたのだった。
嗚呼!アメリカン・トラディショナルは今も強力に生き続けている!
「・・・私が日本に来て一番驚いたことは、実に沢山の人々の間に“トラディショナル”という風潮がこんなにも浸み渡っていることです。
何故だろうといろいろ調べてみたら、何と今日のこの風潮はすでに30年も前から ある一人の男によって創られたという事を知りました。この男は誰あろう1911年生まれの石津謙介氏であったのです。
私は彼に初めて会ってみて、彼がほんとうに“ GREATMAN”だと痛感しました。 1983年10月12日 ジェフリー・バンクス 」
今を時めくニューヨーク・デザイナーのジェフリー・バンクス氏とは、元ラルフローレン・スタッフである。そしてラルフローレン氏とは、元ブルックス・ブラザースの出身であった。
・・時は移れども、かくのごとく伝わりゆく様を、トラディショナルと言うのだ!
かくして、アイリッシュ・セッタークラブ会員のメンバー達は、かつてはV社岡野チーフや伊藤紫朗氏達が渡米し商談に訪れていたあのラルフローレン氏の、集大成であるフラッグシップPOLO本店に襟を正して向かうのでした・。
以下2点、“ブルックスブラザーズ”の写真が無いので
“J・プレス”の写真でごまかします、それもサンフランシスコ店 !! m( _ _ )m
ただし、拡大できます。 |
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ご存知、867 Madison Avenue New York, NY 10021の
“ RALPH LAUREN POLO ” Flagship Shopです。
いわゆるChâteau(街中の)です。
1985年ころのアメ車のデザインが個人的には何とも言いようが無いのです。 |
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立ち姿、左 : コンファイド・セブン(後のラルフローレン・ジャパン)下田さん
一人置いて
右 : コスモアド(後のコスモコミュニケーションズ)島田常務
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1987年、日本に
“RALPH LAUREN”の路面店第一号・銀座店がオープンしました。
上2点は銀座店内部で撮影された岡野社長(左)と若林社長
下はオープン・セレモニー&メディア発表とパーティー時のもの。
管理人もPOLOショップ・オープン他のお手伝いをさせていただきました。 |
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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