続・青春VAN日記108
ケント社の巻 その75(1985年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行⑨>
嗚呼ニューオリンズ!
めくるめくニューヨークの楽しい5日間を過ごしたクラブ御一行は、まだまだ後ろ髪を惹かれつつも、朝のラガーディア空港を出発した。
ニューオリンズまでは約2千Km。東京~沖縄よりも遠い。
その距離は、名機“零戦”の航続距離でも増槽が必要である。
アメリカ合衆国は実に広い、国内にも時差というものがあった。午前10時頃のDeparture(出発)だったのに、なんと、時差のせいで、ニューオリンズ国際空港にArrive(到着)したのも午前中だった。
そして、通関所まで、なんとも長~い連絡通路が待っていた。
ニューオリンズ空港に降り立って目にした米国南部人達の姿は、私の目にはまるで“ガリバーの巨人国”の様に映った。
「会長、私達日本人は、本当に“倭人”なんですねえ!」
(※魏志倭人伝の時代から、日本人は東の野蛮人“夷”とか、矮小の人種“倭人”とか“小日本””という、ありがたくない蔑称を中国から頂いていた) |
男はアンドレ・ザ・ジャイアントかスタン・ハンセンやブッチャ―に見え、女性も“和田アキ子さん”どころではなく、M子・デラックスさんの様な特大体格で、顔にはうっすらと髭が生え、丸太の様な腕にはびっしりと金髪の剛毛が生えていた・・・。
(ああ!40年前、日本国はこんな巨人達に戦争を仕掛けたのか!無謀也!
国力・経済力どころか個々の体力・迫兵戦でも勝てる訳が無い!) |
そして、世界の空港にはそれぞれに独特の匂いと言う物があるのだが、ニューオリンズ国際空港では、芳香剤の匂いが溢れていた。
特に、Men's Restroomは、日本の樟脳系とは異なる強い匂いだった。
ああこれが南部最初の匂いなのか!
(※若い頃、青山ユアーズで買い求め“鈴の湯”での入浴に使っていた米国製“LUX”の石鹸は、日本の石鹸とは違って良い香りがあり、これがアメリカの香りかと気に入っていたものだったが・・・、ここでの香りの強さと、スイーツ類の甘さの程度は度を越していた。)
巨大な女性達からも、くどい程の強い化粧品の匂いがしていた。
さて、この街の地名には、日本ではいろんな読み方がある。
ニューオリンズかニューオーリンズか、はたまたニューオルリンズか。
スイング・ジャーナル誌やW大のデキシーランドジャズ・クラブでは、“ニューオルリンズ”と呼んでいた。
この地名の日本語読みの混乱の原因は、この地が元はフランス領であり、フランス語名だったからである。
New Orleansは、18世紀、仏領・北米植民地として築かれた。
その地名は、「ヌーベル・オルレアン」(新・オルレアン)であった。
(※オルレアンの地名はジャンヌ・ダルクでも有名である。)
1718年 ヌーベル・オルレアンにフランス人の入植が始まる。
1763年 パリ条約によってルイジアナの地はスペイン領となる。
1801年 皇帝ナポレオンがルイジアナをフランスに返還させたが、財政上の問題で1803年、アメリカ合衆国に売却された。
1812年 米英戦争で英軍の侵攻を受けたが、合衆国ジャクソン将軍
(※ジャクソン・スクエアにその名を残す)が英軍を撃破した。 |
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そしてヌーベル・オルレアンはニューオリンズに変わり、ネイティブ・フランス・スペイン・黒人奴隷・ヒスパニック等の多国籍異種文化の混ざり合った、珍しい風土となったのである。
北面をボンチャートレーン湖、南面をミシシッピ―川に挟まれた、湿地帯のクレセント・シティ(三日月の街)と呼ばれる市街の中心は植民地時代の街並みを残すフレンチ・クォーターである。
空港からエアコンの効いたチャーター・バスに乗った御一行は、まずはサイト・シ―イングである。
ボンチャートレーン湖、オ―デュポン公園、カナルストリート、ランバートストリート、ロイヤルストリート、スーパードーム。
そして“欲望と言う名の電車”の走るセントチャールズ・アベニュー。
ボンチャートレーン湖を見渡す公園で車を降りると、そこには湿地帯の地獄の様な蒸し暑さが待っていた。それは群馬や沖縄やグアムの“夏の猛暑”を経験した私にとっても、南方戦線の餓島・ガダルカナルか!と思えるほどの酷暑だった。
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チャーターしたダッヂ・ラム・ロングボディのバスより
ポンチャートレーン湖を横断する道路
(コーズウェイ・全長38kmあまり)を眺める |
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熱中症を恐れた一行は、観光も早々にホテルにチェックインした。
フレンチクォーターの真ん中にあるロイヤル・オリンズ・ホテルだった。まるで映画“風と共に去りぬ”の米南部の大富豪の邸宅の様であり、RoomNo348の私の部屋も実にゴージャス、空調快適!大満足!
気分はまさにスカーレット・オハラやレット・バトラーであった。
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ロイヤル・オルリンズ・ホテルの
コロニアル.様式・エントランス |
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ロイヤル・オルリンズ・ホテルに掲げてあった
“SAINT LOUIS HOTEL”のイラストレーション |
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このホテルからは、あのバーボン・ストリートもジャクソン・スクエアも蒸気船波止場も、プリザベーション・ホールもタンポポコーヒーのカフェ・ドュモンドもジャンバラヤ・ガンボのクレオール料理レストランも、近所だった。
ライブ・ショーにもルイ・アームストロング公園にも、皆、歩いて行ける距離だった。
アメリカ南北戦争時代の南部貴族的白人文化の香るホテル・ロビーでレット・バトラー石津会長は、ジャズの想い出を語るのでした。
「ボクがジャズに夢中になったのは、戦争前の大学生・・・いや、岡山中学4年生の頃だったかなあ・・・。
最初に聞いたのが、確かポール・ホワイトマンの“月光値千金”だった。これは実によかったなあ!・・・蓄音器とラジオの時代だヨ。
続いては東京での明治の予科の頃だったなあ・・・。遊びに夢中で、ダンスホールやちゃぶ屋に入り浸っていた頃に聞いた、“セントルイス・ブルース”やアル・ジョルソンの“オールマンリバー”。
・・・ボクは痺れたネ。練習して一生懸命に唄を覚えたものだヨ・・・。
・・・そして戦争が終わって家族で日本に復員して来た昭和20年代、荒れ果てて焦土と化した日本にはリンゴの唄とジャズが流れていた。
ルイ・アームストロングや南里文雄のトランペット、グレンミラーのムーンライト・セレナーデやインザムード・・・。
ベニ―グッドマン・ジーンクル―パのシング・シング・シング・・・。
ジョースタッフォード、ペギーリー、ドリスデイ、パティページ、そして笠置シヅ子やナンシー梅木、淡谷のり子・・・。
ジェローム・カーン(オールマンリバーの作曲者)の曲を唄っていた
マーガレット・ホワイティングやエラやビング・クロスビーの歌声は、実に美しく魅力的だったよ・・・。
・・・ボクはジャズが好きだった。
だから、その後、バークリーから帰って来たばかりの渡辺貞夫さんを応援したんだよ・・・・・・・・・・・。」 |
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ニューオリンズ初日の夕刻、ミシシッピ―に夕陽が沈む頃、御一行の皆様方は、何はさておきバーボン・ストリートに繰り出した。
バーボン・ストリートは、フレンチクォーターを横切る最も有名な歓楽風俗街通りの名称であるが、その名は、フランス王族“ブルボン家”の名に由来している。
ブルボンの英語読みが“バーボン”である。
果して、ムーランルージュ好きのフランス人の趣味が、この地にも伝わって来た結果なのだろうか?(※米国南部ウイスキーの“バーボン”名も同様の由来である。)
果して、 “ストーリーヴィルの時代”もこの様だったのだろうか?
狭い道路の両側には、ライブ・ショーや風俗の店がたくさん並んでいた。
みな、店のドアは開けっぱなしである。通りは世界の音楽で溢れていた。
デキシーキング、マホガニーホール、パパジョ―ズ、レッドビ―ンズ、ツインシスターズ・・・等々といった店名だった。
ここには、ジャズもデキシーもロックもレゲエもR&Bもカントリイも、・・・ストリップもゲイもセクシーショップも・・・何でもあった。
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フレンチクォーター、バーボンストリートのサイン |
大勢の酔っぱらった観光客達は、店を覗きこんでは、それぞれ好きな嗜好の店に入りこみ、大騒ぎをしていた。
私達も、呼び込みにつられて冷やかしのハシゴを続けたのだが、ある店では、中を覗いたら半裸の女性が出てきて思わず逃げ出した。
新宿2丁目を上回る過激なゲイの店もたくさんあり、実に不気味で、危険と恐怖すらも感じるのでした。
そして健康的な私達は、南部伝統音楽の店“デキシーキング”で、ニューオリンズ・スタイル編成の“世界は日の出を待っている”を聞きながら、大いに飲んだくれて盛り上がるのでありました。
(※ホテルに帰還して、もうちょっと飲もうか!と、ルームサービスで、ジャック・ダニエルを頼んだら、ボトル価格は、日本の半額以下でした。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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夕暮れのミッシシッピー川に浮かぶ
対岸の船 |
ミシシッピー川、
ショーボート上での面々 |
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愛馬に水を飲ませる騎馬警官
(ロイヤル・オルリンズ・
ホテル前の通りにて) |
ショーボートの外輪 |
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