続・青春VAN日記66
ケント社の巻 その33(1983年晩夏)
<出荷作業開始>
小売業“専門店”様との取引においては、その店舗・設備・販売社員・商品・売上のリスクは店舗側が負担する。
メーカー営業は、御要望の商品や各種情報知識をお届けする業務であった。商品の発注・仕入れ作業は小売店の意思であり、品揃えの成功も失敗も各小売店の腕の見せ所でもあった。
・・・かつてのVAN特約の専門店の皆様とは、地域のマーケットを把握し、お客様の顔と服の好み、タンスの中の在庫までを読んだ緻密な仕入れを行なうプロフェッショナル集団であった。
VAN商品の納品とは、“現金の元となるお宝が店に届いた”であり、仕入れた商品を買う各お客様のそれぞれ喜びの顔までが見えていた。
そこには、一部の某大規模小売店のサラリーマンバイヤーのごとく、売れるか売れないかの判断無く、売上消化に確固たる自信もないのに、大店舗のメンツとプライドから多量の商品を発注しておきながら、最初から仕入れてしまった商品の返品時期をも考えているような無責任でふざけた仕入れをする店は、皆無だった。
“最小費用による最大効果”を実践する、仕入れに誇りと責任を持ち店舗に命をかける専門店の皆様方であった。
したがって、さらなる追加発注を求める店こそあれ、よほどの理由でもない限り“返品”をする店などは無かったのである。
そして60年代ヴァンヂャケット社は、御注文頂いた商品を製造し、納品した後には、商品をストックしたり、返品商品を受け入れるための大型倉庫などの設備投資は、さしたる必要もなかったのである。
しかしながら、70年代の高度成長時代が近づき、繊維業界構造不況、通産省指導によるアパレルの大型化、大資本の相継ぐ参入によって、大規模小売店との大型委託取引がその数と量を増やしてゆくにつれ、業界の状況は変化していった。
大規模小売店は、大きな資本の力を背景に、出来るだけその利益を増やす有利な取引条件を次々と構築してゆく。
戦後、大規模小売店によって作られ、昭和28年頃から広まって行った、日本独自の「委託販売制度」。商品・販売社員・売上のリスクは全てメーカー側の責任負担となる。
具体的なメーカー責任負担のリスクとは、期中には売場商品供給のため商品ストックを抱えなければならない。期末には売れ残った商品は大量返品となって返ってくる。必然的に発生した不良在庫の保管場所・処理業務が必要となる。そのため大規模な倉庫・物流施設が必要となる。こまめな商品供給のための運搬手段・営業車も必要となる。
そして何よりも、それらの業務のための多くの労働力が必要となる。つまりは大型委託店との取引とは、目先の売上規模の増大効果よりも、損益計算書における“借方”(費用項目)が極度に増大するのである。
“在庫を抱える”と言う行為自体が、不良資産・人件費・施設光熱費・物流費・等、あらゆる諸経費の増大を招き、年商売上の増加よりも、帳簿上の会社の純利益を大きく減らす負の要因増大となるのである。
言い換えれば、商売が広がれば広がるほど、当然発生する不採算店などのリスクをメーカーが負担する事になり、より苦しみの増す構造なのである。
欧米に、100年続く伝統あるファッションメーカーやショップが多数存在するのは、彼の地の商売は、歴史ある伝統伝承の世襲制度とともに商いの形態が、リスクをも併せて買う「完全買取制度」だからである。
日本においては、ファッション企業のライフサイクルは極めて短い。特に大規模小売店と大きく関わって急成長した企業ほど短命である。
企業が急成長することも、その一生を短命で終わる事も、その原因の1つは、この悪しき「委託販売制度」のオカゲなのである。
いったい何時までこんな不公平制度が続くのであろうか!
日本国での伝統“百年ブランド”創りの前途は、きわめて難しい。
(※私の専門店中心主義の理由であります。)
そして、時はまさに80年代バブル絶頂期。
ニューヨークのティファニービルまでもが、日本企業に買収される時代となった。
都内主要地の地価は高沸し、ファッション・アパレル・TV局・ディスコ・ギャラリーなどの文化・風俗産業は、新しい活躍の地を求め出した。
新しい地は、開発の進みだした“東京湾岸地帯”であった。
かつては、埠頭や港湾倉庫群、工場の立ち並んでいた京浜及び京葉工業地帯には、東京ディズニーランド・幕張メッセ・有明コロシアム・お台場公園等が次々と計画され、東京はウォーターフロント時代を迎えた。
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お台場地区スケッチ
右にやや弧を描いて見えるのが、封鎖できない“レインボーブリッジ”
中央左の高層ビル群は芝浦地区、
手前海の中、細長い島々がお台場砲台跡 |
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2010年の今やツァー・スポットとして大人気の京浜工業地帯名物、プラント夜間照明
管理人にはどう見ても“ブレードランナー”の一場面としか見えません。 |
大規模小売店との商売を開始し、物流倉庫が必要となったVANグループは、お台場を望む“港区海岸・洋伸ブックセンタービル”に物流倉庫を構えるのであった。
残暑の西日の差し込む、蒸し風呂状態の海岸倉庫の中で、VAN・Kent新商品の出荷作業は順調に行なわれていた。
窓からは、まだ建造物の何も無い静かなお台場砲台の海が望め、晴海港には、沖縄・九州・高知・北海道航路の大型フェリーが接岸し、近く豊洲の埠頭には、あの“どくとるマンボウ”北杜夫先生が船医を勤めた水産庁漁業調査船「照洋丸」の姿が見えていた。
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???丸 |
レインボーブリッジや新フジテレビが完成する10年前の事であった・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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