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続・青春VAN日記85

ケント社の巻 その52(1984年夏)

<アイリッシュセッタークラブ・イタリア旅行⑨>

“フィレンツの思い出”

トスカーナの州都フィレンツェは、その発端はやはり古代エトルリア人の手によって始まっていたが、シーザーによる植民都市建設がその起源とされている。

中世・神聖ローマ帝国時代には、地中海貿易の繁栄により毛織物業や金融業が盛んになり、貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には独立した自治都市になった。

また当時、十字軍の遠征によって始まった東方貿易は、イスラム世界からの様々な知識・技術と、イスラムに保存されていた古代ギリシャ文化、そして東ローマ帝国の古典文化をもたらし、ルネッサンス文化の発達をうながす発端になった。

さらに、東方より伝来した火薬・羅針盤・活版印刷術の三大発明は、後の世界史を大きく動かしてゆくことになる。

活版印刷術は、ルターの宗教改革を引き起こし、羅針盤は、大航海時代をもたらし、火薬は西洋社会を世界の覇者へと導き、フィレンツェ・ベニス・ミラノ・ローマにさらなる莫大な富をもたらし、ルネッサンスの学問と芸術、自由を求める土壌を形成したのである。

その産業の振興によって富を蓄積したフィレンツェは、14世紀、フィレンツェ共和国を設立した。


中でも金融業の成功によって有力者となったメディチ家は、ついには共和国の支配者となった。

メディチ家は、その巨万の財力によって、学問と芸術の大保護者となり、ルネッサンス文化“文芸復興”が開花したのであった・・・。


・・・と、ここまではなんとか中学校世界史を思い出していたのだが・・(こんな私でも、学生時代、歴史は得意科目だったのだ!)


・・・フィレンツェの美術館では、ハタと困ってしまった。たしか、中学生の頃は美術の試験でも良い点数をとっていたはずだし、零戦と大和の絵を描かせたら、学校1と褒められていた私だったのに、あれから20年。その美術の基礎知識は忘却の彼方へ飛んでいた。


写実派も浪漫派も後期印象派も・・すっかり分からなくなってしまった。


有名な絵だと言われても誰の絵かすら思い出せなくなっていた。

かつての田舎の学級委員も、只のおじさんになっていた。


・・・せっかくのフィレンツェなのに、“芸術”に縁遠い私には、ダンテの神曲や、エラスムスの人文主義も、レオナルド・ダビンチやミケランジェロ・ラファエロの素晴らしい芸術の数々も、よく理解できませんでした。

猫に小判、 私にシャネル・エルメス・グッチ状態なのでありました。
なので、この地で見た芸術の思い出・美術の詳細の説明は
私にはなんとも不可能なのであります。皆様、悪しからず。(こんな時、藤代先生がいてくれたらなあ?)

・・・しかしながら、夕暮れの市内を流れるアルノ川にかかる屋根付きのヴェッキオ橋の風景、サンタマリア大聖堂、ヴェッキオ宮、美術館の街並みは、ひたすら美しく、VANカラー(バンカラ)な私をひと時の芸術的雰囲気に満たしてくれ、その印象派の名画??のような風景は、永久に私の心に残りました。

・・・やはり、私には高尚な芸術は苦手な世界でありました・・・。


翌日、私達はフィレンツェを旅立ち、チャーターバスで次の目的地“リミニ”へ向かった。

さて、・・・BC60年頃、共和政ローマは制度疲労を起こし混乱していた・・・。ガリア総督として、ゲルマニア戦やブリタニア遠征等の戦いにおいて数々の勝利を収め、ガリア戦記を記し、ローマでの名声を大いに高めたジュリアス・シーザーであったが、ついには、ローマ指導者の地位をめぐり、権力者ポンペイウスやクラッススと実力を争う事になった。

所謂“三頭政治”である。
シーザーの名声を恐れたローマ元老院は、ガリア総督シーザーを解任した。B

C49年。その時歴史は動いた!


シーザーは、配下の軍勢を率いて、ガリア地方とローマ本国の境界線である“ルビコン川”を渡ったのである。

この川を軍勢と共に渡る南下行為は、ローマに対する反逆を意味した。
シーザーは、ついにローマ共和国の武力による制圧を決断し、賽は投げられた!」・・・と、配下全軍に激を発したのであった。

(以後、「ルビコン川を渡る」とは、人生の重大な決断と行動をする事を意味し、「賽は投げられた」は、その決めゼリフとなったのである。byシェークスピア)


このシーザーの進軍にポンペイウスは堪らずバルカン半島からエジプトへと逃亡し、そこにファラオ相続問題で混乱するプトレマイオス王朝がからみ、ついに、クレオパトラ、ブルータス、アントニウス、オクタビアヌス、等オールスター総出演の、大スぺクタクル絵巻が繰り広げられるのである。かの映画でのエリザベステーラー、レックスハリソン、リチャードバートン等の顔がどうしても浮かんできてしまう私でありました。)

そしてポンペイウス派を追い、小アジアにまで遠征したシーザー軍は、来た!見た!勝った!」と、有名な戦勝報告をするのでした。


(※・・・1965年、初の日本車としてメキシコF1グランプリに参戦し、リッチーギンサーで初勝利したHONDA・F1チーム中村監督は、青山本社・宛に次の電報を送ったという。

「来た!見た!勝った!」・・・・・・・・・う~ん、かっこいい!)


その“ルビコン川”とは、現代の北イタリアのリゾート地で有名なリミニ県にある、アドリア海にそそぎ込む小さな川の名であった。



「今、私達は、かつてシーザーが人生の決断をした場所に居るのだ!」


アイリッシュセッタークラブの一行は、遠浅の海岸に延々と続く砂浜に、
広大なプライベートビーチを持つ“リミニ・グランドホテル”に宿泊し、レストランでのディナーを楽しむのでありました。

会長
「今日のバスでのシーザー話、なかなか良かったじゃないか。」

横田
恥ずかしながら“講釈師見てきたような嘘を言い”でございます。」

(・・・その時、テーブルには前菜のサラダが運ばれてきた。)

愛甲
「!あ、このサラダうまい。そういえば、サラダに“シーザース・サラダ”というのがありましたが、あれはシーザーと何か関係があるんでしょうか?」

会長
・・そうだねえ、あれはたしか日本では戦後のGHQの高級将校の宿舎に使われていた帝国ホテルが出したのが初めじゃなかったかなあ。

ボクもかつて帝国ホテルに仮住いをしていたことがあってねえ、シーザース・サラダはアメリカが発祥だろう。そうだったねえ、花房さん?」
 

花房
「はい。私もそう聞いております。たしか、戦前にイタリア系移民のシーザー・カルディー二という名前の料理人が、メキシコ国境の町・ティファナのレストラン“シーザース・パレス店”で作ったサラダメニューです。

この店を当時のハリウッド関係者達が利用して評判となり、またたくまにサラダがアメリカに広まったと聞いております。一説には、かのシーザーの好物だったという話もあるようですがこれは俗説と思われます。」


(さすが、食通の皆様方である。)

会長
「それにしても、日本のレストランでは、おいしい野菜サラダにはめったに出会った事がないなあ。サラダというものは、第1に野趣のあるものでなくてはならない。今畑から採って来たという感じでバリバリと食べる。これがサラダの根本精神だよ。

野菜特有のほろ苦さや渋みや辛さなどの風味を味わうものだよ。


そして第2にはドレッシングだよ。日本の市販のドレッシングには美味い物が無い。だからボクは自分で作る。

まずオリーブ油にレモン、これに酢をちょっときかせる。そうして、作る過程でニンニク、胡椒、マスタード、塩、砂糖などが少しずつ入る。

ボクのドレッシングはうまいぞ!そうだ!こんどボクのドレッシングを商品化して五島さんのデパートで売り出してみようか・・・?」


宇田川
「先生いいですねえ。私も市販のドレッシングやマヨネーズには不満を感じています。日本人はドレッシングやマヨネーズを少し軽く考えすぎているのではないでしょうか?

フランスではマヨネーズに関しても有名な言い伝えがあります。すなわち、女が身籠っている時、あるいは月の障りのある時に作ってはならない、また閉めきった蒸し暑い部屋で作ってはならない・、というものです。」


会長
「なるほどね、いらいらしているときには作るな、気分がなごやかな時に涼しい所で作りなさいということだろうね。卵の黄身は涼しくないとなかなか固まってくれないということだね。

ところでボクの作ったマヨネーズ、これもうまいぞ!」



「う~、一度食べさせてください。」

会長
「サラダのコツはネ、野菜の水をよく切ること、そしてドレッシングは食べる直前に作ろう、ドレッシングなんていうものはね、料理人の個性そのものだよ!よし!日本に帰ったら今度は“食べ物に関する本”でも書いてみようか・・・。」



翌日は、穏やかな遠浅のアドリア海の砂浜で、終日・大人の海水浴を楽しむ御一行の皆様でありました。



Image source by Wikipedia


・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく









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