続・青春VAN日記105
ケント社の巻 その72(1985年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・アメリカ横断旅行⑥>
<ニューヨーク>
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SOHOのどこか・・・・・? |
さて、ファッションとはライフスタイルであるが、現代のライフスタイルとは、衣・食・住+遊(近年、会長が追加された)の事である。
私のニューヨーク学習は、職業柄まずは“衣”の勉強から始めたが、続いては“食”である。
日本アパレル業界の海原雄山(美味しんぼ)と噂される石津会長は、ニューヨーク・ステーキはすでにディナーで賞味済みの私達一行を、ダウンタウンのチャイナタウンへと連れて行ってくれた。
ここは、この街の異人街の中で最大の中国人移民街だった。
<ニューヨーク移民の話>
マンハッタン南端の地 ロワ―・イースト・サイドは、移民たちがアメリカ人になるための最初の出発点の地であった。
この地に最初に住み着いたのは、じゃがいも飢饉の難を逃れてはるばるやって来た貧しいアイルランド人達であった(1850年代)。
アメリカにやってくる移民のうち資金のあるものは広大な土地を求めて西へと旅立ってゆくのだが、アイルランド人達に資金などは無く、そのまま住み着いたのだった。
勤勉なアイルランド人は良く働き、やがて自らの待遇を改善し、ディベイト好きな国民性の彼らは、政界・公務員・警察官の業種に進出して行った(ケネディ家の祖先達である)。
次にやって来たのはドイツ人だった。
ドイツ内戦や欧州飢饉に追われた人々は、新天地アメリカへと逃れた。彼らには、おおむね技術を持ち教養のある人も多くいたのでニューヨークの労働条件の改善・組合の設立に貢献したり医学・文化活動に貢献した人も多かった。
やがて彼らは成功しアップタウンへと散って行った。
1880年代になると、迫害と貧困を逃れる東欧からのユダヤ系移民が増大する。彼らはそのユダヤ商法により、その後長い間ロワ―・イースト・サイドの主となる。
ニューヨークの被服産業界は規模を問わず、生産から小売りに至るまでがユダヤ人によって経営される事となった。彼らの子孫達は、ハングリー精神による知恵と努力で、実業家・商人・知識人として活躍するようになって行った。
マンハッタンのデパートや高級衣料品店の多くはユダヤ系商人の努力の結果なのである。
続いて移民して来たのが中国人である。
アヘン戦争後の混乱により、大量の中国人が国外に流出した。彼らの多くは、職を求めてアメリカへやって来た。そして彼らは大陸横断鉄道の建設現場で汗みずくとなって働いた。
鉄道が完成すると職を失った彼らはニューヨークにもやって来た。
しかし、黒人同様に厳しい差別待遇を受けた中国人たちは、やがてスラム街の、一人の広東商人の雑貨店に集まりだし、白人社会には融け込まず、中国人達だけの移民社会を作りだした。
これがチャイナタウンの起こりであるという。
現代は人口30万人を数える一大中国人租界である。
そして移民法が改正されて移民流入が減少した20世紀、ユダヤ系移民の子孫達が住んでいたロワ―・イースト・サイドの貧しいスラム街には、イタリア革命戦争やコレラ流行の難を逃れて、シシリ―やイタリア南部の移民が大量にやって来た。
チャイナタウンの北地域には“リトル・イタリ―”が形成され、マフィアのゴッド・ファーザー、ラッキー・ルチア―ノも登場し、その後のアンタッチャブル等の様々なギャング映画の舞台にもなるのだった。
Little Italy NY 1989 10, Dec.撮影 クリスマス・イルミネーション |
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今(2010年代)のLittle Italy
右のPositano Restaurant他で同じ場所と言うのが
判りますが、ギフトショップなどが出来
ゴチャゴチャです。
昼夜の差とか季節の差は有れ
1989年の方がItalian Restaurantが数多く存在し
数段“らしさ”が有ります。
(StreetViewより) |
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さらには大戦後には、貧困に苦しむラテン系プエルトリコ人やヒスパニック系の非合法移民の数が増加を続け、彼らが住みついたダウンタウン・スラム街では、先住のイタリア系住民との摩擦事件も多発し、 “ウエスト・サイド・ストーリー”映画の種元にもなるのだった。
※一昔前の、アル・カポネやボニ―とクライド等の大恐慌・禁酒法の時代、9番街・10番街西側の30~57丁目あたりのウエストサイドは、ヘルズ・キッチンと呼ばれるギャング団の暗躍するアメリカでもっとも危険な区域であった。
警察官でも怖がって足を踏み入れられなかったという。
あのアル・カポネが当時のニューヨークを評した言葉が記憶に残っている。
「他人が汗水たらして稼いだ金を、価値の無い株に変えて儲ける悪徳銀行家や、高価な服を着て偉そうな話し方をする政治家等、悪党がこんなにも多いとは思わなかったヨ。彼らは、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴らよりも、よっぽど刑務所行きの資格が有る・・・俺は密造酒を売って皆に喜ばれたのだ。」
(私の故郷の偉人?“任侠”国定忠治も似たような事を言っていた・・・。そしてこの言葉は、現代日本利権社会にも当て嵌まっているのでは・・・?)
そして、ミッドタウンの西側・ウエストサイドは危険地帯の代名詞になった。“10番街の殺人”は日常茶飯事だったのである。
こうした多くの移民達の流入によって成長したニューヨークは、故国への郷愁を背負いながらも、たくましく生き抜こうとする人々のパワフルなエネルギーに満ちてゆくのだった・・・。
アメリカ人の大好きな“アメリカン・ドリーム神話”の舞台となり、ニューヨーク・サクセス・ストーリーの伝説を作りだし・・・、又、ブロードウェイ・ミュージカルやスイングJAZZやブルースのヴィレッジやワシントン広場や42nd ストリ-ト文化をも作り出し・・・、カ―ネギ―ホールやアポロ劇場が花咲くのでした。
ロックフェラー・プラザの入口上に燦然と輝く1925年スタイルのレリーフ(左)
と、R.Fプラザを背にする “ RADIO CITY Music Hall”
( 1987年ロックフェラー・センターの
クリスマス・ツリー点灯式に行ったついでに撮影 ) |
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(※・・・繁栄の陰には、白人達による最も悲惨な アフリカ黒人奴隷強制移民や、略奪・殺戮されて追い払われたネイティブ・インディアン達の存在があった事を、けっして忘れ去ってはならない・・・。)
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そして、世界貿易センタービルに夕陽が当たりだす頃・・・、食いしん坊・石津会長がメンバー達を連れて行ってくれたのは
・・・チャイナタウンだった。
(※今、NYの回想文を書いている私の脳裏には、あの曲が聞こえてくるのだった。
「They can’t Take That Away From Me」
1937年のガーシュウィンの名曲“誰も奪えぬこの思い”の名歌詞。
“A song is ended・・・・・The melody lingers on”
“歌は歌い終わってしまっても、そのメロディはいつまでも心に残る。”
“奪われない物”とは、いつかは別れのやってくる恋人・友人・会社の事では無く、心に残る様々な人生の想い出の宝の事なのだ・・・。
・・・私だけの“奪われない想い出”の映像とは・・・
あの帽子のかぶり方・・・ポケットに片手を入れたポーズ・・・
酒を飲んだ時のあの優しい笑い方から、少々調子はずれの歌い方・・・
・・・ボクはねえ、美味い物には目がないんだよ。・・・嗚呼、石津会長! )
「・・人間の味覚というものは、12~3歳までに決まってしまうということだ。
生まれ故郷や育った土地の味が一生忘れられないのも道理だろう。
どんな高級料理よりも、子供の頃に舌で覚えた昔の味が一番うまいと思えるのはボクだけではないだろう。
しょせん、ボクがフランス料理なんて馴染んだ事も無い物を食べても、感激などあるはずがないではないか。
ボクにとっては、フォアグラ・トリュフ・キャビアよりも瀬戸内の魚や、姉がつくってくれたドロドロのカレーライスや郷土の祭寿司のほうが美味い。
君達だって食べ慣れたラーメンやハンバーグのほうがうまいはずだ。
・・・ファッション・音楽も同じ事なのだよ。
岡山で中学時代に食べた「広珍軒」、天津時代に味わった本場の数々の中国料理、青山で食べた「南国酒家」「龍の子」「翺」「神宮飯店」「萬珍楼」「豫園」。料理には、懐かしい風景・人々・人生の思い出の味付けが加わっている。
・・・だからボクは中華料理が好きなのだヨ。」
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(・・涙と共にパンを食べた人でなければ人生の味は分からない・・ゲーテ石津)
チャイナタウンの会長行きつけの店は「ダブル・ヘイ」?という名の下町の居酒屋のような、けっして豪華・華麗とは言いにくい店だった。
店先には、たくさんの“鳩の姿焼き”がぶら下がっていた。(ギョギョッ!)
(漢文の羊頭狗肉の話ではないが、私は熊の手とか、猿の脳味噌、山椒魚、豚足、犬の肉・豚の丸焼きとか鳥の丸焼き、果ては牛タン・ミミガ―に至るまで、 動物の部品原型を留めるワイルドな中国料理が苦手だったゼェ~・・・。
かつてのV社時代、会長の料理番組取材に動員された鶏肉の大嫌いな藤代先生が、山中湖VANガローのカメラの前で会長特製のチキンカレーを食べさせられた時、涙目になりながらも、“美味い美味い”と言って必死に食べ続けたという・・・??、
“忠誠社員の鏡”のような伝説!・・・いや悪夢の記憶が甦って来た。)
・・・鳥肌の皮付きの・・・尾頭付き・足付きの鳩の丸焼き・・・!
・・・だれか、助けてくれ~!
なぜか、この中華料理店に私も同席し、カメラに残っていたのが
この一枚!! 神棚?が妙に気になりシャッターを押したのでした。
鳩の丸焼きは、丁重にご遠慮申し上げたと思います。
会長は美味しそうに召し上がっていたはず・・・・・? 1985年夏撮影
なお、写真中央下に中途半端に見えるのはきっと『論語』の一説?
従心所欲・・・・・
龍馬精神・・・・・
だと思われます、意味は皆さんで調べてください。 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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