続・青春VAN日記97
ケント社の巻 その64(1985年春)
<麻布十番ケント社の春>
昭和の麻布十番は、JR駅も地下鉄線も無く、山手線内の“陸の孤島”と例えられる程の、都心開発から取り残された実に交通不便の土地でありました。(麻布トンネル等も未開通でした。)
当時の地元では、地下鉄新路線誘致の市民運動を行っていた程でした。
しかしながら、その不便さは、味のある商店街を保っていたのです。
落語の高座も開かれる“麻布十番温泉”。
御前蕎麦で有名な“永坂更科布屋太兵衛”、“更科本店”、“総本家更科”。
うなぎ老舗の“宮川”、焼肉“叙々苑”、和菓子の“紀文堂”、タイ焼きの“浪速屋”、豆菓子の“豆源”、セイフ―ストア・・・等々。
麻布十番商店街での夏の納涼祭は実に楽しいものでした。また、界隈にはアオイ録音スタジオ、TV朝日もあり、昼食時には、社員食堂を楽しく利用させて頂きました。
そして“赤い靴”銅像の近所に数軒ある美味い小料理店でも、夜になるとTBSの遠藤泰子アナや放送関係者の方々をよくお見かけするのでした。
そしてケント社のアポリアビルの地下には、あの洋食の“満天星”がありました。(・・・それにしても食べ物の想い出ばっかり・・・!)
あのVAN復興から6年。日本経済は高度成長を続けていた。
ヴァングループ・ケント社も発展を続け、その本社は青葉台から赤羽橋へ、赤羽橋から麻布十番へと移転した。
この間の、その取扱店数と営業数字は順調以上に増加していた。
・・・当初のヴァンカンパニー直営店は10店舗を数え、ご契約の全国専門店様は、100店舗を超え、百貨店・月販店様への出店数も10店舖を超え、新たに、Shop&Shops社のMrShop・Kent店での展開も始まり、㈱サンマールKentHouse様等々も展示会に訪れるのでした。
やがて、規模拡大に伴って、ケント社の社員総数は、十数名から総勢50名を超える大所帯となっていくのでした。
そして、全社員に対しての、様々な研修、教育が始まった。
現場社員のトラッド勉強会や販売・営業指導は私の仕事であったが、新たに会社指示による、管理職に対しての研修・勉強会も行われるようになった。
・・・いったいどこでどうやって専務が見つけてきたものか、辻善之助という名の(東大の高名な歴史学者では無い)元大手銀行勤務の講師による、KJ法のブレーンストーミング等を使った企業体質改善のための実践会計学講習会だった。
その後数年間に渡って継続された。
( ※・・・失礼ながら、私にはうさんくさく感じられた。
・・・かつてのV社時代にも、研修と言えば、産業能率短大講師の講習会をはじめ、参加者が泣きだすBE訓練から行徳先生の管理職講習会まで各種あったが、私には無益に感じられた。
研修で会社業績は向上したのだろうか。
とあるリーダー研修会の時などは、机上の理論は御大層な講師に対し、現場の実践経験豊かな店長達が反論し、講義不成立になったこともあった。
あの70年代後半、V社マーケティングを能書きだけは素晴らしい外部代理店に委託してしまった時、いったいVANはどうなってしまったのか!
・・・“いったいこの人達に、VANの何が分かるのか!”
私は、偉そうな態度のシタリ顔で能書き垂れるような講師は大嫌いだ。
今更に勉強嫌いで簿記原論等も再履修程度の私らに、金と時間をかけて付け焼刃の会計学や清算表を勉強させても第2の早川取締役には成れないし、商売は会議室で行われるのではない、商いの原点は店頭に有り!なのだ。
・・・私の考えるVAN社の特質、VANらしさの原点とは・・・、それは、それぞれの特技・能力を持った異種能力者の集まった“個性派集団”だ。
バラバラの特技を持った社員達が、石津社長のVANの旗の元に結集し、学校のような自由な社風の中で、それぞれの異能力を存分に発揮していたのだ。
昭和の“梁山泊企業”だった。野武士軍団であった。
VANとは“鬱勃たるパトスにロゴスのゲマインシャフトだ!”
だから今、新VANに必要なのは、常識的なマニュアル社員づくりよりも、他企業には無い“VANらしさ”づくりではないのか・・・
VAN精神“young-at-heart”の振起ではないのか?!
と・・・まるで、“坂の上の雲”を目指して、時代の波にもまれながらもそれぞれの特徴をそれぞれに生かしぬいてゆく、明治の青春群像のような精神主義・能力主義のアナクロな私なのでありました・・・。 ) |
そしてまた、この頃には、現場のフィールドの店頭では、かつて無い変化が起こり始めていた。
東京の銀座・青山・原宿等の有名ショップには、外人客が目立ち始めたのである。目抜き通りに雨後の竹の子のように林立していった世界の高級ブランド店のみならず、その外人客達の姿は、青山Kent・shop、原宿VAN・shopにも、出現したのである。
特に目立ったのが、欧米ではなく東洋系近隣諸外国のお客様達だった。
なんと、中にはMC誌や、ポパイ・ホットドッグ誌を持参して、紙面掲載の商品を指定買いする方もいた。
どうやら、国際化や貿易自由化の進んできた昨今、近隣諸国では、日本での高級ブランドファッションやアイビー・トラッドスタイルに興味を持つ消費者が出現してきたらしい。
はたして、60年代のかつての日本市場と同じような状態なのだろうか?
・・・果して当社は、この流れにどのように対応すべきなのだろうか?
某月某日、青山Kent店の新看板娘?伊藤秀子嬢より連絡が入った。
「横田さん、今、店に香港からのお客様が見えて、MC誌のケント広告を指差して、トラッド等についてのご質問がお有りの様子なので、すぐ来てくれませんか。」
私は当社専務に通訳を頼みこんで、青山に駆け付けた。
(・・・専務の清徳氏は、ジャズ・トランぺッタ―でもあり、東京外語大・ウラルアルタイ語系列・中国語科卒でもあった・・・。)
青山Kent店では、有名高級バッグを手にした香港の文化人セレブと思われるお客様デニス・チャン氏との、中国語・英語・日本語を混ぜた面白い交流が始まった。
昨今の巷での、国際化・貿易自由化の大きな社会の流れの中では、私達も、かの地の情報を少しでも知りたかったのだ。
・・・どうやら今の香港では、日本のファッション雑誌も手に入るし、若者達の間では、イタリア同様にBDシャツも流行っているらしい。
外国にもVANやKentに興味を持つ人がいるのか!と驚きだった。そしてこの事は、海外での商いを考え始めるきっかけともなるのでした。
そしてその後、VANグループの牧尾社長・宮川常務・清徳専務の間では海外進出計画話が始まって行ったのでありました。
(※この頃、ケント社取引店数は拡張を続け、特に月販店の増加は著しかった。このままでは、必然的に“返品制度”による不良在庫が発生し続けて、現在の内部社員ファミリーセール等の処理では消化しきれない金額と量になっていくのは明白だった。
このまま進めば、いずれ又、利益が在庫に食われてしまう日がやって来る。
私としてはこの在庫問題に、相変わらずの営業規模拡大反対論者であったのだが、私には、アジアの若者達に“質実剛健”や“バンカラ”が理解できるとは、とうてい思えなかった。所詮はかつての私達にとっての舶来ブランド品や、MADE
IN USAの流行と同じ道をたどるのではないだろうか・・・?)
果して専務は、当社在庫問題の商品消化方法としての海外計画を考えたようだった。又、香港や台湾でのかの地の商取引形態は、欧米型の “買い取り方式”であるらしいのも考慮したようだった。
・・・かくして88年、台北の“満心企業有限公司”様が御来社され、89年には、私はアイビー・トラッド指導に台湾出張を命ぜられた。
そして、台北の各・有名百貨店でのVAN・Kent商品展開が開始され、その開店イベントには、中国語の御堪能な石津会長に御足労をお願いすることになってゆくのであった・・・。
つづく
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