続・青春VAN日記84
ケント社の巻 その51(1984年夏)
<アイリッシュセッタークラブ・イタリア旅行⑦>
“熱狂のシエナ・パリオ祭”
かつて石津社長は、1972年3月9~24日、シエナ市公式訪問および同市のコルシーニ社視察などのため渡欧しました。
同市訪問は、社長が市の産業発展に寄与した功績に対して、昨年、同市名誉市民に選ばれたことへの答礼としてのものでした。
同市主催の公式レセプションでは、社長はイタリア語で挨拶し、両国親善のため大きく貢献し、その模様は現地新聞のTOPニュースでも大きく報道されたのです。
・・・思えば私が入社決定したその年に、VAN・PRESSの1面に載っていた“石津社長シエナ市訪問”の 記事。
・・・業界の右も左も分からなかった新入社員の私にとって、まるで雲の上の出来事のように感じられていたそのニュースの現地に、今、私は石津会長御本人と共に立っているのです!(大感激!)
シエナ市は、トスカーナ地方のフィレンツエとならび、ルネッサンスの町として有名であり、市中央には、17のコントラーダ(地区)を意味する扇形の“大カンポ広場”があり、ここでパリオ祭が開催されるのです。
1984年・8月16日、シエナの夏空は青々と晴れ渡っていた。
名誉市民であらせられる会長の解説を頂きながら現地理解を深め、この日のクラブ一行は、昼前から市街へと繰り出した。
中世ゴシック調の石造りの街そのままの旧市街は、まるで迷宮の様に細い道路(通路)で繋がっており、その街かどの至る所ではすでに赤い顔をした各地区の大勢の市民達が盛り上がっていた。
市内各地区のコントラーダには、それぞれのシンボルマークがある。
ホタテ、かたつむり、ヤマアラシ、芋虫、亀、象、羊・・・等。
(なんで、獅子や鷲などではなく、よりによって変わった動物ばかりなのだろう?いったいどんな由来・因縁からなのだろうか?)
それぞれの地区の一群はそれらの旗を手に、真っ赤な顔で気勢を上げ、
も~大騒ぎである。
「すごい祭りですね!」
・・・同行のガイドさんに解説してもらおうとその姿を探すが、
・・・頼んでいたガイドのシエナ女性の姿が無い?
私 「あれ?ガイド嬢はどうしたんでしょう?」
会長「あのオバサン、昼飯だといって家に帰っちゃったヨ!」
私 「そんな!?彼女は仕事中ではないですか?信じられない!」
会長「これが、イタリア人というものなのだよ!分かったかい!」
私 「ああ!なんたるち~あ、サンタルチ~ア!」
パリオの競馬レース
ところで、私には“競馬”については語れるような知識が無い。
いやしくも、学校で「価値の根源は労働である」などと「剰余価値説」を生噛りしてしまった私は、“額に汗しない所得は適切なものでない”などと思いこんでしまったので、投機や賭け事はしないのである。
それに加え、かつてメンクラ誌で得た知識では、アスコットやタッタ―ソール等、“西洋の競馬”とは紳士淑女のファッションを競う社交場所である、と書いてあった。
確かに日本の競馬場も、ファッションを競う場所であった。
ただし、日本の競馬場は、“普段着を競う”場だった。
府中競馬場では、一目でその人の職業が、たいていわかるのである。職人は職人らしく、トラック野郎・サラリーマン・魚屋・肉屋・大工等、その人の生活そのままが、服装に現れているのである。
腹巻や手ぬぐい鉢巻きの作業着姿で観客席で叫んでいるオジサンの姿である。
かの英国ウインザー公のような紳士の姿などはどこにも見当たらなかった。
華やかな騎手のユニフォーム、肌つやの良い馬たち、きれいな緑の芝生。目を転じて、観客席を見渡せば、競馬新聞に赤鉛筆の貧しげな庶民風景。
こういう男達から、わずかの金を巻き上げて、甘い汁を吸っている奴がいるのだ。法で賭博を禁止しながら行政が賭け事をやっているとは・・・。これは、まちがっても紳士の集う社交場などでは無い!
うー、けしからん・・・!
(・・私は、単純1型人間なのであります・・・。)
さあ、青々と晴れ上がった紺碧のシエナの夏空の下のパリオ祭、いよいよのカンポ広場の競馬レースである。
会長お知り合いの地元有力者のお力によって、早い時間から広場に面した建物の3階・VIP用ベランダ席に陣取る事が出来た。
はやばやとワインなどを頂いていた私達であったが、開始間近の眼下の広場は、すでに数万の人出で溢れかえり、足の踏み場も無い大変な状態となっていた。
広場にファンファーレが鳴り渡り、壮大な“マンジャの塔”の鐘の音が響き出すと、いよいよ“パリオ祭”の開始である。
まずは、各コントラーダによる中世風衣装の粋を凝らした、騎馬隊・鼓笛隊付きの大デモンストレーション・パレードが始まった。周囲の中世市街の景観すべてを含む、実に壮大な時代絵巻である。
各コントラーダの先頭を行く旗手は、VIP席の前に来ると、掲げた大シンボル旗を大きく上空に向かって投げ上げ、芸を披露する。
この日は人・物・建物、目に入るもの全てがルネッサンス時代そのままであり、私達は、中世イタリアそのままを現実に実体験する事が出来たのでした。 (すべては名誉市民である会長のおかげでした)
パリオ祭のメインイベントは、午後4時からのカンポ広場で行われる“コントラーダ対抗・競馬レース”である。
17地区あるコントラーダの中から10の代表が選ばれ出場する。
このレースで勝つことは、地区にとってこの上ない名誉らしい。各地区がものすごい盛り上がりようである。
ところで、カンポ広場は平らな石を敷き詰めたツルツル石畳である。
広場周回の臨時コース上には、多少の土を盛ってあるが、果してこんなので馬は大丈夫なのだろうか?
大きな広場とはいえ競馬場にしては狭すぎる。コーナーが急角度過ぎる。しかも勢ぞろいしたのは、裸馬である。非常に危険ではないのか・・・?
号砲一発、10頭の馬がぶつかり合いながら物凄い勢いで走りだした。
あっ危ない!
案の定・最初のコーナーで曲がりきれない先頭がスリップ、人馬ともに大転倒した。
いったいなんなのだこの競馬は! 断じて普通の競馬ではない!
馬と馬がぶつかりあい、騎手同士が鞭で叩きあっている。
これでは、まるで映画“ベンハー”の戦車競走シーンではないか!
オーノー! 次の急コーナーでも、弾き出された人馬が壁に激突した。
(これは・・・博多山笠、岸和田だんじり祭りよりも過激だ!格闘技だ!)
何周かして、号砲が鳴り、レースは終了した。
すると大観衆がコース上のゴールになだれのように殺到した。
押し寄せる大群衆の、人また人の大津波!
勝ち残ったホタテ・コントラーダの群衆は泣き喜び大絶叫している。
負けた亀コントラーダの騎手は、怒号の中で袋叩きに遭っている。スゴイ!凄すぎる!まるで国会議事堂前の安保闘争だ!
事態が収まるのを待ってから、カンポ広場を抜け出した私達であったが、中世旧市街の石畳の至る所では、“阪神優勝時の道頓堀”や“早慶戦時の新宿コマ劇場前広場”を上回る大騒乱状態がいつまでも続いていた・・・。
嗚呼!熱狂のシエナのパリオ祭!恐るべし!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
|