続・青春VAN日記58
ケント社の巻 その25(1983年夏)
<石津謙介アイルランド漫遊記7・列車の旅>
アイルランドの国内旅行はとても簡単そうである。
CIE(国営交通公社)の鉄道やバス路線が網の目のように発達しているので、いつでもどこにでも出かけられる。
おまけに道路は左側通行なので、日本人にとっては交通規則の心配がほとんど無い。渋滞も無く、立体交差も無く、緑の中の一本道だ。
初心者のレンタカードライブでも、楽しい旅が出来そうだった。
8月25日
ドロモランドキャッスルにて至福の二日間を楽しんだ一行は、次なる目的地ロンドンへ向かう為、鉄路ダブリンへと向かった。
リムリック駅から乗車した列車の旅は忘れられないものになった。欧州タイプのまるでメルクリンの鉄道模型のような列車は、TVの“世界の車窓”のように楽しいものだった。
車窓を飛んでゆく優雅な丘や緑の草原を眺めながら、ボックスシートの隣に座った私の質問に答えて、石津会長はたくさんのVAN話をして下さった。
「会長、いったい会長がVANを始められたきっかけは何だったのでしょうか?」
「そうだねえ、話せばずいぶんと長い話になるなあ・・・。
ダブリン駅まで二時間半かかるか、いいだろう、話してみようか。」
<会長のお話>
「・・ボクはねえ、岡山の名の通った紙問屋の息子だったんだが、お洒落だったお袋譲りで小さい頃から着る物道楽だった。
上京しても学生時代から銀座で服をあつらえたりしていたんだが、
明治大を卒業して岡山に帰り、稼業の若旦那をしていたら日華事変が起きて戦争の影が濃くなってきた。
次第に本業の紙の統制が厳しくなって、もう商売にならなくなった。
ボクは日本にいても もう仕方が無いと考え始めたんだ。
そんな時、ボクは親友の大川さんを頼って、中国の租界地・天津に行ったんだ。
天津では大川さんのお兄さんが、大川洋行という洋品店を開いていて、手伝ってくれと頼まれた。
それでボクは一家を連れて天津に移住したんだ。
天津は世界中から人が集まる一大国際都市だった。
親友の大川照雄さんは、ボクより3歳年上で12歳頃からの顔なじみだった。
この大川洋行が終生のファッションビジネスの始まりだった。
小さな店だった大川洋行はやがて栄えに栄え、世界の衣料品を扱って天津租界一番の売上を記録した。
そしてボクは、イギリス人の洋服の専門家達と親しく交際して、服の知識、貴重な実物や資料を勉強することが出来たんだ。
この時多くの外国人と付き合って英語・ロシア語・中国語を覚えた。
スコットランド人のテイラーのミスター・スライ氏には、英国の紳士的な礼儀・プライドというものを教えてもらった。
そして終戦となって、店が無くなった天津でのドサクサの時代、各国語が堪能だったボクはアメリカ憲兵隊の通訳になった。
その時、いろいろ助けてくれたのがプリンストン大学出の秀才、オブライエン中尉だった。
それからというもの、親しくなった彼の語るアイビー・リーグの話は、ボクをひどく興奮させた・・・。
このことは、後のVAN作りの伏線になったんだよ。
そうこうしているうちに、やっと日本に引揚できる事になった。
8年ぶりに見た日本は、まったくの焼け野原だった。
ボクは何もする気にならず、家で毎日ブラブラしていた。
そんな時、大阪のレナウンからうちに来ないかって誘いがあった。
かつて天津での大川洋行とレナウンは大きな取引関係だったんだ。
最初の仕事は、レナウン・サービスステーション作りだった。
大川照雄さんが副社長でボクが営業部長、田中千代さん達と一緒に仕事をしたものさ。
ボクは米軍のPX関係から素材を入手して、ありとあらゆるメンズウェアを作り、戦後の衣料品業界の中で一躍有名人になった。
しかしこの頃の国民はまだ食うや食わずの状態で、大人は復員服を着、若者はまだ学生服すら無くボロを身にまとっている時代だったから、洋服を買いに来るのはヤミ商売や、米軍PXの横流し商売で儲けた成金や裏世界の人達だった。
その代表格が、コルネット商会のモモタ、サンフレールのカシマ、大阪のオーカワ商工、といった人達だった。
彼らはやり手で頭も良く今でいう商社の元になった人達だ。
そしてアブク銭をもった金持ち客達が集まるのが京都の四条ミドリヤ、心斎橋のクロワシといった店だった・・・。
しかしボクはこういった業界はいやだった。
金持ちのためではなく、一般の普通の人達に喜んでもらえる服が作りたかった。
また、ボクは大規模な会社ではやっていけない性格だったので、思い切ってレナウンをやめた。
この時ボクの終生の相棒になった高木一雄さんもレナウンをやめ、大川さんと三人で石津商店という会社をやることになった。
この時、ボクの頭には、これから売れるのは“アメリカ的”なものだという信念が出来上がっていた。
ケンテルやケンタッキーといったブランドを作っては、土臭いアメリカ的なワークシャツやデニムのGパン(当時は裏白という名で呼んだ)やサドルシューズなどの商品を作っていた。
とにかくジーンズ生地をファッションとして扱ったのは、たぶん日本ではボクが最初だっただろう。
今、ラングラーの社長を大川さんにお願いしているのは、こんな経緯もあったからなんだよ。
大川さんは“裏白”のプロだった。
・・・そして、石津商店は爆発的に売れ出した。
石津商店はどんどん発展し、やがて思い切って社名を変更したのだが、・
・当時オブライエン中尉の影響もあって、すっかりアメリカ好きだったボクは、カメラマンをやっていた兄貴の友達で、写真評論家だった伊藤逸平さんが出版していた風刺雑誌のタイトルだった“VAN”という名がとても気に入っていた。
VANという音の響きもいいし、いかにも男性的である。
なにより意味がいい。
VANというのは“第一線”という意味なのだ。
あるとき、伊藤さんが兄貴のところへ遊びにきた時、思い切って「VANという名前をボクにくれませんか」とお願いした。
VAN名使用を許してもらった時は本当にうれしかった。
そして社名も決まり、事務所も決まった。
場所は大阪市南区北炭屋町14番地。
木造二階建ての、小さいながらも自分の会社だった。
有限会社ヴァンヂャケット、資本金50万円。
それは昭和26年のことだった。
現在は、アメリカ村と呼ばれるこの地こそがVAN発祥の地だ。
さて、どんな服を作るか、それが問題だった。
昭和31年、ボクは方向を決めた。
かつてオブライエン中尉に教わった“アイビー思想”が運命を決めた。
それまでは作るたびに、新劇の信欽三、千田是也さん、東野英治郎、小沢栄太郎、木村功、山岡久乃さんといった友人達が大喜びして持ち帰っていった高級紳士服の路線を、若者対象に変更した。
ボクは戦後の着る物の無い若者たちのために、品質の良い長く着られる服を作りたかった。
明日の日本を担う若者達には、世界に恥じない格好をしてもらいたかった。
・・・オブライエン中尉から聞かされていた“お爺さんや父親にもらった服を、子や孫が誇りを持って着続ける崇高なアイビー精神“がボクの質実剛健思想とぴったり合った。
服はデザインで着るものじゃ無い。思想で着るものだ。学生服や親兄弟のお古、米軍の払い下げ品を着るしかない若者達に、世界に通用する良識・礼節のある誇り高き服を提供したい。
幸い日本には、日本の誇りある伝統のプレップスクールである旧制高校のバンカラ精神といった昔からの精神的土壌がある。
高価な物、高級な服を着る事が、ファッションではない。
新しい物を求め、変わることが、ファッションではない。
欧米には優位な立場・格上の人間が、弱い立場の人間のことを思いやる、紳士道・騎士道のフェア精神がある。
旧制高校の、わざとボロを身にまとって弱者の立場を気遣う“弊衣破帽の精神は、思いやりの心・エレガントな欧米紳士の精神とも繋がるものだ。
“男は社会で着る”“女は社交で着る”・・それがアイビースタイルだ。
たとえば勉学に忙しい良識あるアイビー学生達が選んだシャツは、旧式の、糊づけだアイロン掛けだ、と手間暇かかる高級品ではなく、他人の手を煩わせることもなく自分で洗える綿素材のシャツだった。
1枚のシャツで普段の勉学からドレスアップまで着られる合理精神。
衿先をボタンで留めたシャツはノーアイロンでも衿が崩れない。
これが質実剛健のボタンダウンの精神だ。
日本の若者には、アイビーを着てもらいたい。
ボクは、さっそく阪急にVANショップを作って、大川さんに戻って もらい店長になってもらった。
・・・これがVANのアイビーの始まりだった・・・。」
「どうだい、横田君、わかったかい。」
列車はダブリン終着駅に到着した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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