続・青春VAN日記30
ヴァンカンパニーの巻 その14(1982年2月)
<ヴァングループの初社員旅行@>
かつてのヴァンヂャケット時代には社員旅行が毎年行なわれていた。
60年代には、全社員がまとまっての大社員旅行。そして70年代には、規模拡大にともなって所属部課別の社員旅行。
年に一度のVAN学校の、修学旅行だった。
そして一番人気は、社内選抜“アメリカ研修旅行”。
海外旅行が珍しかった時代の、全社員にとってのあこがれだった。
しかし70年代末期には、業績悪化にともなって中止になってしまった。
それが今年、業績好調につき、久しぶりに懐かしの“社員研修旅行”が実行されることになったのである。
ニュースを聞きつけた社員達からは、旅行先リクエストが相次いだ。
ほとんどの社員は、あの憧れの“アメリカ研修旅行”に行きそびれた年代の人達だったのである。
・・・そして目的地は“米国西海岸”に決定された。
1982年度決算を好調の内に迎えた2月、ヴァングループ社員達は、日程をずらした2グループに分かれ、青葉台本社に集合した。
私は早川社長、石川営業部長と共にA班だった。メンバーは、君塚さん、クニオちゃん、持丸嬢、横山女傑、三嶽ちゃん、堀内さん、伊藤さん、土田さん、並河さん、笹やん、大川君、VO仲本ちゃん夫婦、VS社員、ゲスト藤代先生、合計約25名。
まるで遠足前日の小学生のように心躍るグループ社員達は、お迎えの空港バスにて青葉台から成田に向けて出発した。
成田空港でのX社員達は、落ち着きの無い子供の様でした。銀行に飛び込み現金をドルに両替する者、旅行保険に入る者、アメリカには日本食が無いと思い、“鮨、そば”を食べまくる者、酔い止めの薬と征露丸を飲みすぎてやたらとトイレに行く者、港内神社で旅の安全を祈り、念仏を唱える者、・・・等々。
それでもジャンボ機はトランジットのバンクーバーを目指し無事離陸した。
私達がまず到着したのはサンフランシスコだった。
初日は、定番のウェルカム市内観光である。ゴールデンゲートブリッジ・フィッシャーマンズワーフ・アルカトロス島・ケーブルカー・ツインピークス・チャイナタウン・ユニオンスクエア・・・。
“SO WONDERFUL!BEAUTIFUL!”
おもわず、トニーベネットの“I left my heart in San Francisco”が口をついて出てくるのだった。
サンフランシスコの風景は、多くの媒体やクリント・イーストウッドの刑事映画等で見なれていたので、初めてなのに郷愁さえ感じてしまった。
ランチはフィッシャーマンズワーフでシーフード。ディナーはチャイナタウンの“金龍”。今にもブルース・リーが飛び出してきそうなムードだった。ドラゴンスープヌードル・アチョー!
そして宿泊はユニオンスクエアに近い、ケーブルカー通りのパウエルSt沿いにある“サー・フランシスドレイク・ホテル”だった。
この系列は、昨年のヴィーナス旅行でもニューオリンズで宿泊したが、実に16世紀の大航海時代ムードの演出が素晴らしい。
スペイン無敵艦隊を相手にした有名なドレイク提督にちなんだロンドン衛兵スタイルのドアマン達が一段と旧西海岸ムードを演出し、中世風の内装とあいまって、まるで劇中にいるような楽しさだった。
2日目は、南加大U・C・B校にてマーケティング学の特別講義を受講した。実にアカデミックな学内の雰囲気が素晴らしい、図書館・COOPも最高!
これで私も、気分はすっかりカリフォルニア大留学生!
校内シンボル・タワーの上から見た青春の米国キャンパス風景は、林田昭慶先生の“TAKE・IVY”で見た映像と同じだった。
・・・あの頃俺達は、トニパキ・トロイドナヒュー・ダスティホフマン達の演じていたキャンパス・ライフに憧れて大学に進学したんだよなあ・・!が、講義内容は、“需要供給曲線・ケネー経済表・商品ライフサイクル論”等々、日本の大学の経済学授業内容と同じであった・・・。
3日目はいよいよ待望の自由行動。私達は、いやしくも石津学校の生徒であるから、高級ブランド品や免税店などの物見遊山のおみやげ観光には興味は無いのだ。自己業務のための勉強と研鑚を積むべく、Jプレス、ケーブルカーC、エディバウアー、LLビーン、メイシー百貨店、・・・と、ユニオンスクエアへ出かけたのであった・・・が・・!?
<Jプレス、エレベーター事件>
きちんとアポイントをとった上で、私達10数名のグループ社員がJプレスS・F店を訪れたとき、その事件は起った。
まずは店内1Fの売場を見て、店長の今期商品傾向等の説明を受けた。お馴染のフックベントモデルは、アメリカで見ると一段と味わい深い。
続いて、上部階のストック場や事務所に伺おうとエレベーターに乗った。
それはJプレス店の入っているビルと同じく年代物の小さなエレベーターだった。
私達はわいわいと8〜9名乗りこんでボタンを押した。
・・・動き始めたと思ったら、途中で止まってしまった。
・・・あれ?と思いながらも、すぐ動くだろうと気にしなかった。
ところが、エレベーターは10分経ってもピクリとも動かなかった。
・・・ここは米国を代表する一流店だから、心配は無いだろう。
一応緊急の電話機が付いていたので掛けてみるが応答が無い。
(※電話の横には、なんと、英語で定員6名と表示があった・・・!)
さらに10分経っても、ドアの向こうには何の変化も感じられなかった。さすがに青くなった。一体この店のエレベーター管理はどうなってるのだ?
そして私達は、V社員にあるまじき“みっともない”状況に陥るのだった。
「HELP ME!!!」・・・ドアを叩いて大騒ぎするのであった。
ようやくJプレス店員が気づいて行動を起こしてくれたが、ドアが開いたのは、それから1時間も後のことであった・・・。
・・・やはりここはアメリカだった。他国の店内で日本の常識や感覚で行動してはいけなかった。
ここのエレベーターは日本製の日立のエレベーターではないのだ。6人乗りといったら、ほんとに6人乗りなのだ。定員を守らなかったために、すっかりお店に迷惑を掛けてしまった。
・・・V社員達のこのような失敗談は、連日耳に入ってきた。
ホテルでは、自動キーのドアである事を忘れて自室に入れなくなる者がいたり、バス・シャワー・ビデの使い方が分からず湯を溢れさせる者がいたり、ロビーでLOVE for SALEの巨大女にひっかかり部屋まで押しかけられて助けをもとめるVS社員がいたり、ディナーでは洋食マナーのまるでダメな者がいたり、
・・・と、アメリカ通であるはずのV社員達にしてこの有様だった。海外で日本人がほんとうの一流客となるためには、お金にものを言わせて高級ブランド品買いまくることよりも、その国の文化や常識・マナーをもっとわきまえなければならない。
世界の一流と呼ばれる店や商品には、生活様式・文化・歴史が背景にある。そのことを理解もせずに、世界の有名ブランドを買い求め、身に付けてもそれは国際的誤解の元である。
“衣服とは人間を表意するためのツール”というのが世界の認識である。
品格の形成されていない人間が、伝統ブランドを身に付けてもそれは“服に着られている”状態である。ミスマッチである。
ブルックスやJプレスは、WASP社会の教養とステイタスのシンボルである。日本一般サラリーマンの私ごときが身に付けるのは恐れ多い。
日本には、日本人による、日本人のための、日本のアイビーがある。それは日本の“VANカラー”(バンカラ)である。
だから私はVANを着る、VANを作る、VANを売る。これが、日本・1型質実剛健トラッドの心意気だ。
私達X社の使命は、単なるファッションを売って善しとする商売であってはならない。“モノ”ではなくライフスタイル・精神を売らねばならない。
と、しっかりと国際化とトラッド道の勉強をしたV社員達であった。
・・・しかし、あのJプレスの文化財的な古いビルやエレベーターには、もうちょっとお手入れが必要なのではないだろうか・・・?
そして十数年後、あのサンフランシスコ・Jプレス店は、無くなっていた。
1982年、J PRESS San Francisco |
1997年同じ場所
J PRESSが有ったフロアはサインも無く、
Lloyds BankはCartierに
アメックスはブルガリに
どこかと似ているなぁ・・・。
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“旅の楽しさは、人と会うこと、泊まること、そして食べる事。”
石津謙介
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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