続・青春VAN日記132
ケント社の巻・その98(1988年秋)
<親しき中にもマナーあり>
秋の繁忙期商戦を迎える頃は、ケント社の職場にも事務作業
応援のアルバイト女性達がやって来る。
今回は専務の知り合いとかで、旧V社員が友人だったと言う30歳代の御婦人方がやってきた。
この御方達には、接客経験豊富な私もさすがに驚かされた。
「ねえ、ヨコタ君、(エッ?)この書類これでい~い!!!」
「ヨコタ君、昼食の時は私も声をかけてね!おごってよね!」
「私、今忙しいから、私にやらせないで自分でやれば~~!」
「私疲れたから休憩してもいいかしら!」・・・等々。
・・・▲☆$♯♩♨?!・・・
(※初対面である。しかも彼女達はすでに無知蒙昧なギャル年令では無い。
・・たとえ彼女らが、先輩上司の知り合いや奥様であったとしても、偉いのは上司本人であり、御本人以外の人に私が “君・呼ばわり” され、タメ口をされる覚えは無い。職場は学校の教室ではない。
仮にも私の立場は、会社の上司であり部長なのである。
・・・かつて私のV社での就業経験では・・・、男同士は皆、役職名での名字の呼び合いであったが、先輩社員の人事のマドンナ千葉さんは“ヨコタさん”と呼んでくれた。
石津会長の奥様も、私如き若造にも“ヨコタさん”と呼んでくれた。
それがバイト女性のおばさんに“君呼ばわり”されるとは・・・。
例え女性上司であっても成人男子に“クン付け”は失礼ではないか!)
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サービス業界でこれまで多くの男女販売社員の面倒を見てきた私も、驚ききのあまり開いた口が塞がらなかった。
・凄すぎる! 世の中には、これ程の超人類が居たのか!
世の中は広い!どう育ったらこれ程の自己中人間になれるのだろうか?
人間の“不条理”を気付かせる彼女らに、私は“異邦人”の姿を見た。
これ程の御方には、とても私如きの注意助言が通用するとは思え無い。瞬時にして白旗を上げた私は、丁重に彼女達にお帰り願うのでした。世間知らずな常識の異なる 宇宙人とは、ウマが合わなかった。
かつて若い頃に多種人間の博物館“デパート”でも経験した事であったが、人間の常識とは何故かくも違うのだろうか?
平均的普通人間を自覚する私には、驚きの毎日だった。
古典的男子校出身者の私には、特に女性達の発言行動は理解しがたく、女性とは異次元の生命体としか思えなかった。
何故、女性は、あれほど他人の噂話をしたり秘密を知りたがったり、
ゴシップ話が好きなのだろうか?
何故、どこにでも金魚のフンの様に集まって、
周囲の迷惑も顧みず延々とお喋りを 続けるのだろうか?
何故、他人の生活や秘密や電話帳の中まで見たがるのだろうか?
何故、自分の分もわきまえずに他人の仕事・考え方・服装・行動・趣味に
至るまでを、簡単に軽々しく批判できるのだろうか?
何故、「私が・・私は・・」の自己主張が多いのだろうか?
何故、弁解・言い訳が多く、原因を他人のせいにするのだろうか?
何故、流行や周囲の人目ばかりを気にして行動するのだろうか?
何故、買い物や男選びや人生でも、あれほど優柔不断なのだろうか?
何故、占いや姓名判断やカルト等の非科学的なものが好きなのだろうか?
何故、自分の考えで意思決定をせずに他力本願型なのだろうか?
何故、自滅するのに“パンドラの箱”まで開けてしまうのだろうか?
・・・ああキリが無い・・・。
(※自立出来ていないと言えばそれまでだが、嗚呼!コンフォーミティ。
それでも、悲しいかな 男は女性の魅力には勝てません。饅頭怖い!)
<ウマが合う?とは>
・・・学生時代、私は自分の故郷が田舎だったから、必然的に下宿したり、アパートで共同生活したり、又、部活の合宿や集団生活等も経験した。
多くの貧乏学生達は、良いも悪いも無く、好きも嫌いも無く、他人との共同生活をせざるを得なかった。
私のアパートは、4部屋全てにジャズ研の部員達が住んでいた。
ギターとアレンジの橋本真秀さん、トランペットの大久保康二君、バリトンサックスの中沢森夫君、ギター名人の桂茂雄君・・・、そこでは、日夜・楽器練習やマージャンの大騒音が溢れ返り、頻繁に訪れるクラブ後輩部員との酒盛りが催されていた。
食事も皆で共同で作ったものだった。実にウマが合った。
(※その騒がしさに成城署の警官にもたびたび御足労をいただきました。)
その時に気付いた事だったが、同居をしていると中にはウマの合う奴とウマの合わない奴がいる。共同生活のウマい奴とヘタな奴とがいる。
同居のウマい奴というのは、一緒にいる相手に迷惑をかけないぐらいに考えるのだろうが、決してそんな単純なもんじゃない。生まれも育ちも価値観も異なる人間同士が共同生活するには、最低限のルールが必要である。ウマとは合わせるものでもある。
私達貧乏学生は社会に出る前に、皆これを学習したものだった。
(※・・・“ウマ”とは文字通り“馬”のことである。優れた武将でも、馬が合わなければ戦場で活躍はできなかった。)
・・・先日、ジャズ研の同窓会が有った時に、皆が感想を述べた。
「学生生活でいろいろな経験をやったが、友人達と同居生活をやったことは、本当に有意義だったよ。・・・後になって、職場での人間関係や、結婚してからの女房との結婚生活上でも、 おおいに役立ったものだよ!」
「学生時代に下宿や寮で同居生活をやった人間は、赤の他人と同じ部屋で生活するコツを身に付けている。そのコツとは、どんなに親しくなっても、ある線以上は同居人の中には入らぬことだよ。その線をどこにきめるかは相手次第、各人各様だが、同居生活を幾度か経験すると、自然と解かるものだヨ。」
「最近の恵まれたゆとり世代の若者達には、雑居経験が少ないから、適応能力が弱いようだ。だから就職しても我慢出来ずに退職したり、結婚してもすぐ離婚する傾向が増えたのではなかろうか?」
「近頃の家政科や花嫁修業では、家計のやり繰り・男の甲斐性や、やれ生け花、料理の作り方とカロリー計算ばかり教えて、肝心の夫婦生活の基本となる同居生活のコツをしこまないのは、はなはだ片手落ちではないのか!
そりゃ、カロリーも生け花もお茶も亭主の批判も結構だよ。しかし夫婦というのも、誰しも最初は俺達の学生時代と同じ様に、昨日まで生活を共にした事が無い人間が寝起きを共にすることじゃないのかね。」
「だから、やはり同居生活のコツをお互いが守る事が必要だと思う。夫婦は愛情で結ばれているんだから普通の同居生活とは違う、と、そう考えるのは過信というものだ。
それに普通の同居生活では相手がイヤになれば、ハイサヨナラと言えるが、結婚生活はそう簡単にはいかんのだヨ。」
「だから、余計に同居のコツをお互いが知って、それを守る事が必要だよな・・・。
・・俺にはね、娘が一人いるんだが、年頃になったら遠くの大学に送って、そこで寮生活をさせようとさえ思っている。“可愛い子には旅をさせろ”・・だよ。
それがあるいは、よい花嫁修業になるかもしれないからナ・・・。」
・・・私は、皆の言う事も確かに一理あると思えた。
他人との生活には必ず“ウマが合う・合わない”がある。
今考えて見ると、自分も学生時代の集団生活で、社会生活のコツを身をもって学んでいたようなものだった。
思い出してみると私の同居のコツは、次の様なものだった。
① 同居人のものを承諾なしに見たり調べたりしないこと。たとえば、同居人の引き出しを勝手に開けたり洋服のポケットを調べたりすれば、必ずケンカが始まるのは当然だ。
② 金銭はもちろん、その他の品物を借りることはあっても、お礼を言ってすぐに返す事。
③ 彼の故郷、身内、親兄弟のことは、どんなに彼が悪く言っても、決して調子を合わさない事。 理由は簡単だ。彼には悪口を言う権利や理由があるが、こちらには無い。
どんな人間も自分の身内の悪口をいわれるほど腹の立つことは無い。
④ 万一、口論など始まった場合は、いつまでも我を張らず、すぐにどちらかが折れる事。同居して口喧嘩すれば、その傷は後を引く。傷口が深くならないうちに、出血を止めるのは当然ではないか。
・・・ウマを合わせるコツは、たった四カ条だ。
もともと人間は十人十色、皆、趣味も嗜好も考え方は違うのである。話がぴったり合う相手などは稀有である。
要は、自己中心はやめて相手を尊重することである。
“目には目を・歯には歯を”、“倍返しだ!”をやり出したら永遠に世界平和は来ない。
結論は“利己的な欲望は捨てる事”。
“他人の喜びや悲しみ”も、自分と共有する事。
愛とは相手に求める事では無く、自己犠牲の姿である。
同居も家庭も職場も世界平和も同じ事なのだ。
さて、世間を見渡したところ、多くの男女・夫婦の中では、学生同居人達が無意識的に守っているあの四カ条の基本さえ、無いように思える。
現実社会は自己主張のぶつかり合いばかりだ。
夫婦であるからという口実の下に、夫に来た手紙やメールや日記を勝手に読む妻がいかに多いことか。又、夫のポケットを調べる妻がどれほどたくさんいることか。
また反対の事もあるだろう。
その時のコソコソとした、後ろめたい目つきを考えただけでも、自分が嫌にならないのだろうか?
これらの行為は相手への愛情では無く自己保身の自己愛に過ぎない。
“疑い”が事実であろうと間違いであろうと、相手を信じられなくなったら、もう互いを思いやる理想の夫婦では無くなる。
格下の単なる同居人以下に成り下がる。それでも夫婦だからという口実の下に、愛情の無い同居を続けて、夫婦の兄弟親戚の悪口を言い合い、夫の母親の悪口までを言う妻のどんなに多い事か。
悪意ある同居にでもなれば、やがて愛などは存在しなくなる。
後は、お互いが反省しない限り悲惨な修羅場が待っているだけだ。
過去に過ちと失敗の無い人間などはこの世に存在しない。
それを非難しあっても所詮は無益の行為である。
男は、泣く子と地頭と惚れた女にはとうてい勝てないのだ。
だから賢い夫婦関係のコツは“負けるが勝ち”である。
(※あの大哲学者ソクラテスでさえ、妻には勝てなかったのだ。
※教訓・・・良識や理性とはヒステリーや狂気には勝てない。)
話が横道にそれましたが、そもそも人間とは、鋭い牙や爪を持たず、丈夫な皮膚や毛皮も無い脆弱な動物でした。だからこそ群れを成し共同生活をする事によって大自然の脅威と戦い、頭を使い、火を使い、道具を作り、衣服をまとい、地球生命体の頂点に立つ事までが出来た。
人類発展の原動力は家族や仲間との協力作業の群れの力であり、又、その力を効率よく使う“分業システム”でもあった。
男は家族を養うため外に狩に出かけ、妻は家の火を守り子供を育て、お爺さんは山へ柴刈に、お婆さんは川で洗濯し・・・、人にはそれぞれに特性や立場・役割の“分”というものがあった。
同居や集団には“分”があり規則があってこそ力を発揮して“ドンブラコ・ドンブラコ”とウマく流れていた。
たとえ職場や夫婦や地域社会や国家関係であっても・・・、その原型は、一つ家に寝起きを共にする同居生活なのではないか。
“他者への思いやり”の出来ない自己中人間には同居の資格は無い。
(※隣国の悪口を世界中に“告げ口外交”する女性大統領もいるらしい。)
“親しき仲にもマナー有り”ではないのだろうか。
さて、そこで石津会長からのお言葉。
「おしゃれとは、自分以外の他の人に気をつかうこと。
それは、思いやりであり、気くばりである。
自分の姿を着飾って、優越感に自己満足する事では無い。
他人の邪魔をしないように気を使うことである。
見も知らぬ人にも好かれようとする心である。
好かれないまでも、嫌われまいとする心の持ち方である。
社会生活の中での行為・態度・言葉使い・服装・身嗜み・・等、
・・いつ・どこで・何をやる・・
ここに注意を払う事が“人生のT・P・O”だ。
(※服だけの話では無いのである。)
皆がもっと努力をして欲しいものだ・・・。」 |
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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