続・青春VAN日記131
ケント社の巻・その97(1988年夏休み)
<続・1型親バカ物語>
この頃の私の夏休みは、家族を連れての帰郷生活でありました。
「♪兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川 夢は今も巡りて 忘れ難き故郷~。」
やっぱり子供を育てるのには、田舎がいいなあ・・・!
・・・バブルの80年代。かつての三船敏郎や裕次郎、建さんの“男の世界”は遠くなり、女性はますます社会進出し、かの“女子大生亡国論”は炎上し、その姿は、男専用だった居酒屋や吉野家にまで進出した。
各種のパーティや同窓会の出席者にも、ご婦人や奥様方が増え、そして、話題には必ず“子育てや教育話”が登場するのだった。
絵画館前児童公園で子供と遊んでいても、若い母親達の会話が耳に入ってくる。
「うちの子は、慶応幼稚舎に行かせようと思っていますの・・。」
「うちでは、学習院か白百合ですわ・・・。」
「お茶大付属はどうかしら?・・・。」
「タクでは、成城・成蹊・武蔵ざ~ますの・・・。」
(※・・・1型男の反応・・・。
・・・いい加減にしてくれ!・・・今や、教育も流行ファッションの一つなのか?
学校も、あなた方の好きな高級ファッション・ブランドなのか!
私が思うに、子供は親が育てるものだ。
子供は学校の名前では無く、親の背中を見て育つものだ。
学校が教えるのは世の中の自然科学の法則的知識に過ぎない。
“世界の偉人伝”を読んだ事があるのだろうか?
野口英世、エジソン、湯川秀樹先生達は、付属や有名学習塾なんかに行ってはいない。勉強したい人は、“蛍の光・窓の雪”で自分で努力して勉強するのだ。
己の分もわきまえず、“お受験・有名塾”でもないだろうに・・。)
私は、1型のトラッド馬鹿であります。
トラッド(伝統)とは、正統、基本、良識、等の意味でもあります。
そして、その信条は“質実剛健”なのであります。
したがって、私の考える“男子のあるべき姿”とは、“真面目で飾りけなく、心身が健康ですこやかな男” です。
それは、安易に流行に乗ったり、奇抜な格好や行動をしたり、贅沢な高級品を身に付ける軽薄な男の姿ではありません。
ましてや、自己規制も出来ずに身勝手な行動をとる男には、“紳士”どころか“男子”の資格も無いと考えます。
「質素で控えめでありながらも、しっかりと自身の考えを持ち、己には厳しくとも、他者に対しての思いやりを忘れない男」
それは・・・「剣客商売の秋山大治郎」の姿でもありました。
・・高度成長も陰りを見せ、モーレツ社員も出世主義者も減り、ロッキードやリクルート等の高学歴者の巨悪の犯罪もあった。
かつてのお墨付きだった学歴は、同世代の30%もが大卒の時代、将来の豊かな生活を保証するモノではなくなっていった。
だから私の考えは“分相応”。
「・・・金儲けや立身出世だけが人生じゃない。
平凡な何の変哲もない幸福な一生だってあるじゃないか。
・・・青い鳥は自分の家の中にいた。
獅子の子でもあるまいし、名家の出身でも無い自分の子供を、わざわざ高いお金を使って、名門だ、一流だ、・・・と、“弱肉強食”の修羅の競争世界に進ませる事もないだろう。
小さな子供のうちから勉強勉強と追い立ててどうするのだ。
“子供は遊ぶのが仕事だ!今、遊ばせないでいつ遊ぶのだ!”
私は、子供を絶対に塾や習い事なんかには通わせない。
私が子供と遊んで育てる!子供と過ごすこんな楽しい時間を、他人なんかに渡すものか!」 ・・・と考えていた。
したがって、親の世間体で“お受験・有名私立”などと騒いでいる母親を見ると、不愉快な気分になるのだった・・・。
・・・夏休みを実家に帰り、すっかり白髪の増えた親父と話をしていると、過ぎ去った昔が走馬燈の様に思いだされる。
私の考え方のルーツは、父親の影響を受けたものだった。
・・・私の父親は苦労の人生を重ねた真面目な人だった。
遠い祖先は、関東・小田原北条氏の出城である上州小泉城に仕えた武士であったらしいが、父は幼少の頃に父母両親を病で失い、小泉・城の内のあばら家で老祖母に育てられた。
尋常小学校の頃から学問好きの父であったらしいが、貧困生活のため、地元の旧制太田中学への進学もままならず、東京の、旅館を営む親戚に引き取られて丁稚奉公の生活をした。
しかし尋常小学校しか出ていない父は、学校にも通えない中で、“蛍雪”の独学で勉強して、中島飛行機に入社した。・・・そして太平洋戦争。
父は徴兵され海軍航空隊の整備兵になった。
同期や部下思いの真面目一本槍の兵曹だった父は、零戦や銀河を整備していたが、軍隊生活で随分と酷い目にあったらしい。
(※幼少の頃いっしょに風呂に入ると、父の背中には大きなミミズ腫れや傷の跡が残っていた・・・。)
終戦時には、あの小園司令官の海軍厚木航空基地にいた父は、“日本のいちばん長い日”も“マッカーサーの来日”もその目で見ていた。
命ながらえた父は、富士重工(旧中島飛行機)に復員し、見合い結婚し、子供が生まれ、父親になった。
父は、あのスバル360の開発にも携わっていたらしいが、当時盛り上がっていた労働運動にも参加していたので、会社で出世することは無く、高給与にも縁がなかったが、家庭では、こよなく子供を可愛がってくれた。
そして私は、父からは勉強しろと言われる事も無く、
(※母親はうるさくて閉口した。・・・勉強しろと口煩い人には、得てして勉強した事の無い人が多い様だ・・・。)
又、凡才の私は自分でも進学は難しいかなと思っていた。
(※勉強は父が教えてくれた。父は小学校しか出ていない筈なのに、 連立方程式から微分・積分まで教えてくれた。・・・驚きだった!)
・・・そんな父が、私が物心ついた頃に、言った。
「私は小さい頃、貧しかったから進学する事も出来なかった。いったいどれだけ学校に行きたいと思ったことか!だから君は、自分の人生を自由に生きなさい。出来れば、私が昔憧れていた太田高校に進学して欲しい。・・・大学にも行っていいんだよ!」(※父は、酒も煙草も賭け事も音曲もいっさいの遊びをしない人だった。道楽もせずに、一生の全てを家族のために働いてくれた。そして2012年、私の看取る中、89歳で苦労の人生を終えた・・。)
・・・そして、私も子供に同じ事をしていた。
子供の人生は子供のものだ。
何事にも拘束・制約されずに自分の意思で生きてもらいたい。
だから親都合の英才教育や特殊教育などはしない。
普通で当たり前の、健康な日本男子に育って欲しい。
<まずは“明るく元気で正しい心”だ!>
・幼い頃は、キディランドや子供の国で1日中一緒に遊んだ。
乗り物に興味を示したのでバスや電車に何度も乗りに行った。
上野動物園、向が丘遊園、ディズニーランドにも出かけた。
本人が行きたがった所で心行くまで遊ばせた。
毎晩一緒に寝て、古事記やギリシャ神話や日本昔話等の寝物語を聞かせた。
(※ずいぶんとアレンジしてしまったが・・。)
いつも話の途中で寝てしまう我が子の寝顔は天使だった。
(※我が子は公共の場等では絶対に“ダダをこねない”子になった。)
・幼稚園の頃は、自転車の乗り方を教えて虫を採りにいったり、部屋じゅうにプラレ-ルやトミカをしきつめて、一緒に遊んだ。夏祭り、運動会、バザー、遠足、クリスマス、もちつき大会。 子供と食べるお弁当は最高だった。
(※友達がいっぱい出来て、ケンカをしない子になった。)
・小学生の頃は、木材を買ってきて庭に小型卓球台を作り、近所の子供達も集まって来ていっしょに遊んだ。ミニ4駆やラジコン・プラモデルで一緒に遊んだ。夏休みの宿題・工作・絵日記・ドリルも一緒にやった。夏は頻繁にプールに連れて行って真っ黒になった。相撲大会で準優勝した。綱引き大会の選手にも選抜された。冬はスケートにも行った。授業参観日にも私が出た。運動会やPTAにも全部出席した。学習塾などは考えもしなかった。
(※私は子供に“勉強するな・1番には成るな”と教えていた。・・・普通で良いんだよ・・頂点とは下降線の始まりの事だよ・・・。PTA会議では、“子供にもっと宿題を出して、もっと勉強させて下さい!”などと言う母親達がいた。・・・数少ない男親代表の私は反論した。 “今、子供に遊ばせないでいつ遊ぶのだ!結婚してから遊ぶ男になるぞ!” 母親連中は黙った。・・・後で担任から感謝された。)
・中学生の頃には、勉強よりも運動部の部活や友人作りを優先させた。海や山へと頻繁にドライブに連れ出し社会や自然を体験させた。富士山・箱根・南アルプス・赤城・榛名・浅間山・磐梯山。マンボウ先生の旧制松本高校や東北大・青葉城・鶴ヶ城、松本城、小田原城、熱海城、そして新潟・大洗・湘南・初島の海水浴。神田神保町の学生書籍街。九段の靖国神社の零戦52型。上野博物館、浅草寺・仲見世・大黒家の天ぷら・横浜中華街。そして地図の見方から、交通ルールやマナー、社会規範、名所・旧跡の歴史や物語や人物偉人伝に至るまで、どっぷりと話してあげた。
・・・そして勉強しろ!とは絶対に言わなかった・・・が、勉強場所を作り、学習机や本棚等を手作りしてあげた。
(※本棚には、昔の私の愛読書を並べて置いた。剣客商売・宮本武蔵・千葉周作・剣の天地・柳生一族・等の剣豪物や、マンボウ航海記・青春記、青葉繁れる・狐狸庵雑記帳等の青春物や、坂の上の雲・零式戦闘機・四人の連合艦隊司令長官・・・等々。
・・ある日から、息子が私の事を“父上”と呼ぶようになった。
きっと、剣客商売を読んだに違いない。シメシメ!)
私には自分の命より大切な子供だった。
私の伝えられるものは全て伝えておきたい。まだまだ子供と遊び足りなかった。
今一緒に遊ばないで、この先いつ一緒に遊べるのだ。勉強なんか中学3年生になったらやればいいのだ!
絶対に有名私立校なんかには通わせない!(私は公立派です。)
反抗期も親子喧嘩も全く無い友達親子でありました。
・・・そして、息子は自分の意思で進学した。それは、お爺ちゃんの夢でもあり、私が青春時代を過ごした、あの、元旧制中学の質実剛健男子高校だった・・・。
あの日の自分と同じ校章を付けた学生服姿を見て、思わずホロリとする祖父と私でありました。(・・3年の間、私は子供の弁当を作り続けました。)
やがて自分で進路・職業を決定し、自ら奨学金を申請した息子は、国立大学に進み、大学院生となり、私を見降ろす立派な体格の、秋山大治郎の様な好青年に成長した。
(※息子の就職シーズン余話。
教育委員会での面接試験の時に、あえて私は、用意しておいたVANエンブレム付1型ネイビーブレザーを息子に着て行かせた。もちろん白オックスBDにレジメンタルタイ、4cmWにローファー、の姿である。
・・私は、教育界にはトラッド経験者や愛好者が多い事を知っている。
役職者年代の面接官達がどういう学生時代を送り、どんなファッション感を持ち、受験生の若者達のどこをどう見るのか、も、知っている。全員が同じ様な、画一的なリクルートスーツ姿の中で、はたして・・・。
案の定、帰って来た息子は“面接官に服装の事を聞かれた”と報告した。
「・・もしかして、君の名前と、その服は関係があるのかね・・?」
「はい、私の父は元VAN社員で私の名は石津謙介先生の1字を頂きました。
・・このブレザーは、私の“身上・信条”を表すものであります・・。」
「石津先生ですか! 私達も良く着たものだよ、懐かしいネェVAN!」
ボタンダウンを着ていた面接官は、自分達の青春時代がオーバーラップし、瞬時にして、打ち解けてくれたらしい。
・・・合格だった! 質実剛健流の青年教師の誕生であった! )
“お爺ちゃん、ちゃんと育てたよ。伝統は伝えたよ!”・・・。
(※人生3毛作目の収穫でありました。)
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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