続・青春VAN日記140
ケント社の巻 その106(1989年11月)
<青山のトラさん台北に飛ぶ①>
さて、昨年度のケント社展示会にも遠路はるばるお越し頂き、日本のトラッドファッションにかねがね興味を示されていた台北のアパレル会社「満心企業股份有限公司」様であったが、牧尾社長・清徳専務との商談にも大分進展があったようで、販促・営業担当の私は、急遽“台北出張”を命ぜられた。
任務は、台北市の“ファッション動向・マーケットリサーチ”と、満心企業の社員皆様との“交流・トラッド講習会の開催”等の・・・
言わば取引開始に向けての、プレ・プロモーション活動であった。
出張同行者は、Vカンパニー大川販売部長(74年V入社・広島大卒)であった。
ところが、マージャンもやらない私の知っている中国語とは、ニーハオ・アチョ―・イ~アルサンス~・中華料理名ぐらいなもの。当然、中国語会話は全く出来ないのであった。
そして台湾についての私の浅薄な既存知識はと言えば・・・、
・台湾の語源は原住民の言語(来訪者)が由来。漢語では無い。
・中世以前の日本では“琉球”や“高砂”と総称していた。
・日本人の母から生まれた国姓爺の英雄・鄭成功の大活躍。
・日清戦争に勝利した大日本帝国による台湾統治の功罪。
・台湾総督府による植民地政策・皇民化運動・抗日運動の問題。
・太平洋戦争開戦の暗号にも使われた台湾最高峰“新高山”。
・帝国海軍台南航空隊の小園中佐・新郷大尉・坂井三郎一飛曹。
・大本営の勝利大誤報・台湾沖航空戦。
・日本敗戦後、毛沢東に敗れて台湾に逃れた国民党・蒋介石総統。
・中華民国と中華人民共和国との国連承認問題。
・中華民国総統・李登輝の民主化政策による日本再評価。
・そして甘くておいしい台湾バナナ・・ぐらいのものだった。
しかし、中国語も解からず歴史も風土も全く不勉強なのに、それでもトラッド普及の夢に燃える私は、若き日の“鄭成功”の如く、躊躇無く台湾に飛び立って行くのでした。・・はたして質実剛健・文武両道・報恩奉仕・弊衣破帽・・等のトラッド精神は、台北の男性達に通用するものでありましょうか?
(※・・実は台湾では、かつての日本統治時代に50年間の日本語教育が成されており、白人植民地主義とは異なり、日本本土と同等扱いの統治が行われていました。又、近年の李登輝氏(96年総統就任)の日本再評価も有ったおかげで、かの“隣国”での 戦後における日本憎しの怨念の教育とは異なり、日本文化や精神にも理解を持つ人々が数多く存在するのでした。原爆を落とされても300万人以上が殺されても、“罪を憎んで人を憎まず”“憎しみは平和を生まない”と米国を憎まなかった日本人達の考え方を理解できる人達がいました。
台湾での日本の先人達が残したものとは、悪意と憎悪の歴史認識だけではありませんでした・・・。)
・・それにしても、どこまで続くか私の海外出張・・・。どうやら人間の人生にも“拍子”や“リズム”というものがあるような気がする。
かつての田舎の貧乏少年の私が、アイビーに出会いVANに入社し、世界的視野を持つ石津会長に憧れる事によって友人達にも恵まれ、まさか国内どころか海外まで飛び回るビジネスマンになるとは・・!
まさに、あの懐かしい坂本九ちゃんのヒット曲ではないが、
♪この世で一番肝心なのは~“ステキなタイミング”だった。
音楽世界の三要素
“リズム・メロディ・ハーモニー”とは・・、・・・人生という作曲にも必要な三要素であるのかもしれない・・。
皆様!くれぐれも人生のリズムには注意を払いましょう・・!
さて、話を戻します。
夕刻の台北空港に到着し、右も左も分からず不安でいっぱいのドリフタ―ズ状態の弥次喜多コンビを迎えに来てくれたのは・・・、ケント社展示会に御来場賜り、私の能書きも聞いてくれていた、満心企業・営業本部處長の蔡士杰さん(サイさん)であった。
「オ~、ニーハオ、フ―アイニ~、シェ~シェ~」
まずは、台北市中山北路二段181にある満心企業様の本社へ向かう。
道路は右側通行であるが幹線道を走る車の交通量は東京と同じで大変混雑している。ベスパ等のオートバイの数がやたらと多かった。(皆ノーヘルメットである)
あちらこちらで渋滞が発生していた。
・・・車中から見える市内の夜景には目を奪われた。繁華街通りに入って目を引いたのは、道路の両側を埋め尽くす漢字の電飾の看板、広告、ネオンサインの量の凄さだった。まるでクリスマス時の新宿の様な光の洪水だった。
異国情緒たっぷりの情景には「チシュシャマ~」の連発だった。
しかし何故だか空気に違和感を覚えない。この熱気と喧騒を帯びた夜の風景はいつか見た光景だ。そうだ、進学で上京して歓迎コンパで初めて行った夜の新宿。
夜になっても人混みでごった返していた歌舞伎町と同じだ。
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台北・九份の路地、“千と千尋の神隠し”の舞台とされている (台湾観光地ガイドより) |
人々の顔つき服装、瓦屋根の家屋や漢字の看板等の風景には、サーファー男やガングロ娘などよりもよほど親近感を感じてしまい、なぜか昭和の日本のレトロな郷愁さえも感じてしまった。
やがて新宿通りのような大通りにそびえ立つ本社ビルに到着した私達は、“熱烈歓迎”の幹部社員の皆様に御挨拶を申し上げた。
満心企業様とは、アパレルとして台湾市内の一流百貨店に店舗を持つだけでは無く、傘下にはホテルやレストランも持つ大企業グループだった。
総経理・李俊良(エドワード・リー)氏
管理本部経理・張煌椿(レイモンド・チャン)氏
秘書長・劉熲悦氏
(※なんと、幹部社員の皆様方は、全員、日本語会話が出来た!)
そして広いオフィスに居たスタッフの皆様をご紹介頂いた。
営業本部・謝居財氏・林健勝氏
商品開発・林彗晴氏
主席設計技師・小久保幸二氏
・・・なんと日本人社員もいたのだ!
・・・そして更には・・・、突然、初老の紳士に日本語で声を掛けられた!
「ヨコタさん、VANのお杉さんはお元気ですか・・?」
「えっ?・・“お杉さん”と言えば旧V社・杉山今朝弥ヘッドですか?」
「そうです。私の知り合いなのです!」
「ゲゲッ・・!杉山部長は私のKent上司でありました!!!
・・いったいあなた様は???」
「申し遅れましたが、私の名は“金井俊夫”と申します。
・・・遠い昔は浅草で役者をやっておりました・・・。」
想い起こせば、私の青少年期・・・。テレビでは、淀川長治氏や水野晴郎氏等の解説による映画番組等、ひと昔前の沢山の懐かしい日本映画をも見る事が出来ました。その中でも記憶に残っていたのが名画「エノケンの孫悟空」でした。
この映画は、1940年、日米開戦の直前に東宝によって制作された歌あり踊りありの豪華絢爛、浅草オペレッタの 「西遊記」だった。
主人公には孫悟空・榎本健一、三蔵法師・柳田貞一、猪八戒・岸井明
そして、沙悟浄・金井俊夫氏であった。
共演は、高峰秀子・李香蘭・渡辺はまこ・中村メイコ・・他。
監督は滝村和男、特撮監督は、あのゴジラの円谷英二氏。
OH, WHAT A DIFFERENCE A DAY MADE!
そして戦後、役者を廃業して繊維業界に入った金井さんは、60年代のVAN制作社員・杉山さんの知り合いだったのです。
偉大なるVANの先輩方のオーラはこの地にも届いていた!
かつての旧V社の評判とは、国内繊維業界だけに留まらず、外国の業界にまで広がっていたのだ。
これで台北での緊張はすっかり解けた。もう恐い物は無い!
“さあ!横田節の全開だ!”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく
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